経営者インタービュー詳細

VOL.1

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

京都で一番の建築建材の専門商社になる

株式会社 三和

/

部長佐々木 喜一
京都で一番の建築建材の専門商社になる
現社長のお父様が2代目で将来的には佐々木部長が3代目を継承予定とのことですが、元々どういった経緯で入社されたのですか?大学を卒業されてすぐに入社されたのですか?

大学を卒業してすぐにこの会社に入ったのではなくて、同じような建材の別の専門商社に入社しました。でも、父の会社に入るのが嫌だったとかそういうことは全くありませんでしたよ。たまたまご縁を頂いてその会社には入社したのですが、今思いと良い修行期間だったように思います。その会社にはトータルで5年ほどお世話になったのですが、3年ほど経った頃から何となく家業に戻ることを意識しだしたんです。その気持ちがだんだん強くなって入社5年という節目で退職してこの会社に入りました。

現社長のお父様が2代目で将来的には佐々木部長が3代目を継承予定とのことですが、元々どういった経緯で入社されたのですか?大学を卒業されてすぐに入社されたのですか?
他社から家の会社に入ると「社長の息子」と、それまでにはなかった見られ方をされたことだろうと思いますが、それについてはいかがですか?

確かに、前の会社では一人の営業マンとしての佐々木でした。しかし、ここに入るとどうしても「社長の息子」という見られ方をします。でも、そのことについてネガティブな印象を持ったことはありません。いい期待をして頂けているんだと感じています。ただ、今年で入社7年目なのですが、ここ最近そう呼ばれる度に今まで以上の責任と言いますか重圧をひしひしと感じるようになりました。

なるほど。キャリアを積まれるごとに心境にも変化があられたんですね。現在は、営業部の責任者をされているとのことですが、リーダーとしてどういったことを大切にされていますか?

会社としては、利益を上げなければいけませんし、そのために私達営業部が存在する訳ですが、売り上げや数字を追求するばかりに人間関係がぎくしゃくするようなことだけは無いように心掛けています。会社の社風としても全体の「和」を大切にしていますし、私個人としても全員で和気あいあいと仕事に取り組めるような組織づくりをするように努めています。2019年からのコロナ禍で中々全体で社員旅行や忘年会等のイベントが出来ていませんが、落ち着いたらまた再開していきたいと考えています。

「和」というのは、日本独特かもしれませんが、会社という組織の運営においてはとても大切なお考えだと思います。これから先のことを見据えて、佐々木部長が一番時間を使われていることはどのようなことでしょうか?

今まで、営業をやってきましたから会社の内側のことの勉強が全然出来ていないんです。ですから、将来のことを見据えて財務や会計や経理といったことの勉強を始めていこうと考えているところです。ですが、まだそこに時間をさけていなくて、時間を一番使っているのは何かと聞かれると単純に営業活動ということになってしまいます。あと、時間を使っている訳ではありませんが、気を使っているのは健康管理です。

なるほど。代表を継承後のことを見据えて財務等の勉強を始められるんですね!ここで少し明るくない質問をしますが、未だ続くこのコロナ禍ですが、御社にはどのような影響がありましたか?

正直なところ、売り上げが落ちはしましたが致命的なダメージは逃れることが出来ました。これも一重にお取引頂いている、板金屋さんや鋼材屋さんといったお客様のおかげです。「コロナに掛かってないんやったら材料持って来て!」とか「材料欲しいから取りに行ってもいいか?」という風に、自粛ムードが漂う中ではありましたが沢山の注文を頂いていました。ただ、売り上げ云々ではなく、社員がコロナに感染して欠員が出たときはしんどかったです。仕事量が変わらないのに人員でが減ってしまって、一か月ほどはバタバタしていました。

コロナ禍において仕事量が落ちないというのはすごいことですね。そんな取引先の皆様に対してはどのような思いをお持ちですか?

まず気を付けているのは、笑顔と言葉遣いです。取引先の皆様と接しているときは、常に笑顔を絶やさないように心掛けています。そして、難しいご依頼を頂いたとき、「絶対無理」や「絶対出来ない」というような言葉は使わないようにしています。確かに依頼を受けた時点で出来ないことが分かることもあるのですが、その場では、「一旦持ち帰ります。」とお伝えして、会社に戻ってから何とか出来る方法が無いのか模索するようにしています。私が、そうするようになったのは昔、現社長の父に「この世に絶対は無い!」と強く叱られたことがあったんです。それからどんな場合でも、絶対出来ないとか絶対無理という言葉は使わないようにしています。

「絶対は無い」確かにそう思いますが僕なんかはつい口にしてしまいます。次に、従業員の皆様に対してはどんな思いをお持ちですか?

お客様に対して、どんな時であっても笑顔で頭を下げられるのは本当にすごいことだと思います。たとえ理不尽なことがあったとしても、特定の社員さんだけではなく、皆さん笑顔で頭を下げられるんです。これについては、会社としてそうするように教育が行われているのではなくて、社員さんの一人一人がお客様へ感謝の思いを持って接されている昔から代々受け継がれる社風なんだと感じていて誇りを持っています。

それは、本当に素晴らしいことですね!最後になりますが、今後のことについてお聞かせください。

やはり、京都で一番の建築建材の専門商社になりたいと考えています。建築建材の卸というのは、どうしても仕事柄競合他社との差別化がしにくい業界なんです。その中でも差別化するために各社、材料を卸すだけではなく加工も行ったりしています。しかし、どこも加工をやりだすと結局各社同じになります。そんな中、弊社は昔から加工を行わず、材料卸に徹しています。このスタイルを変えることなく、業界内での差別化を模索しながら京都で一番の建築建材の商社になれるよう日々頑張っていきます。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。