経営者インタービュー詳細

VOL.101

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.24

お客様・家族社員・協力会社その全ての存在がモチベーションの源

有限会社エムエーオー

/

代表取締役髙橋 正雄
お客様・家族社員・協力会社その全ての存在がモチベーションの源
髙橋社長は起業されてから今年で33年とのことですが、どのような経緯で独立されたのでしょうか?

高校を卒業してから、今の業界とは全く違う業界で一般的なサラリーマンをやっていました。そこでの仕事はとてもやりがいもあって待遇も良く満足していました。しかし、そこでのある日、「営業部に来ないか?」と社内異動の声が掛かったんです。そして、この声が掛かったとき私は、会社が認めるほどの実力が自分にはあると思い込んで、他で自分を試してみたいと思って退職したんです。しかし、退職したものの目が行くのは好条件の求人ばかりです。条件が良い会社に行くと、当然ですが簡単ではないキツイ仕事な訳です。そして、仕事がきついからと退職してしまう。更に、「何で前の会社辞めたんやろ…。」なんて後悔する訳です。そんなことをしばらく繰り返していました。そして、どの勤める会社も給料は良くても25万円位でした。「俺の人生は25万円の人生か・・・。」そんな風に人生を悲観していました。そんな時に、「住宅のクロス屋やったら、月40万円位になるで!」という話しが耳に入ったんです。それを聞いて当時の私は、早速内装工事のクロス屋さんに転職しました。そして、3か月間だけ修行してすぐに独立してクロス屋をはじめました。これが、この業界に入って独立したキッカケです。

髙橋社長は起業されてから今年で33年とのことですが、どのような経緯で独立されたのでしょうか?
3か月の修行期間で独立!?怒涛のスピードですね。はじめクロス屋さんで独立されてそこからどのような経緯でマンションリフォームに特化されたのですか?

3か月で独立した訳ですから、技術なんてまだまだ未熟でした。ですが、当時の日本はバブル真っ只中。仕事は沢山ありました。習うより慣れろで、現場の数をこなすことで技術を付けて行きました。そして、色々な現場で仕事をする中で、分譲マンションでの仕事があったんです。この時に、「こんな仕事もいいな。」と感じたんです。それから、分譲マンションの仕事を取ろうとチラシを撒いたんです。この時の広告のメインキャッチコピーにしたのが、「マンションリフォーム専門店」だったんですね。それまでは、工務店さん等の下請けをすることが多かったのですが、マンションリフォーム専門店として動き出してからはお客様と直接やり取りをするようになったので、お金儲けだけではなく仕事をすることそのものに対しての喜びも感じるようになりました。また、マンションリフォーム専門店で展開するからには法人でないといけないだろうとのことで平成8年に法人化しました。

ありがとうございます。数年前に流行ったランチェスター戦略のようなことを随分前にされていたんですね。現在、経営者として大切にされている考えや信条というとどういう事になるでしょうか?

弊社は現在でも少数精鋭で組織を運営しています。ですから、私自身、経営者や社長というよりも親方の意識が強いように感じています。ですから、社員の皆対しても何かをやれと指示をするなんて言うことはありません。気付いたことは自分でやる。自分で動く。大切にしているのは、そういう考え方ですね。

社長が率先して気付いたことをやられるのは素晴らしいことだと思います。そんな髙橋社長が現在最も時間を使われている事、努力されていることはどのようなことでしょうか?

私は、職人ではありませんので、実際の現場では職人さんたちが仕事をしてくれます。その職人さんたちが仕事をしやすい環境作りをすることに最も時間と気を使っています。なぜなら、職人さが気持ちよく仕事を出来る環境を私が整えて喜んでくれれば、それがそのままお客様の喜びに通じると考えているからなんです。ですから、朝から晩まで色々な現場を走り回っていますが、全ては職人さん達の仕事のやり易い環境作りのためです。

なるほど。次に聞きにくいことを伺いますが、今までの最大のピンチはどのようなことですか?

今から約15年前。会社の20周年のタイミングで5億円の売上を目指そうとしたんです。そして、それを達成するために人に投資をしてどんどん採用して社員を増やしたんです。しかし、結果は全く上手くいかず赤字に転落しました。そして、ただ業績が赤字に転落するだけではなく、あらゆることがガタガタになりました。この時に、売上げよりも自分の目の届く範囲で、しっかりお客様に喜んで貰おうという思いを軸に全てを見直しました。

ありがとうございます。それで現在の少数精鋭の組織に落ち着かれたんですね。現在の髙橋社長の社員の皆様への思いをお聞かせください。

弊社が仕事を出来ているのは、私以外の社員の皆と協力会社の皆さんのお陰です。協力会社の皆さんは、弊社が依頼した仕事に対してエムエーオーとして仕事に取り組んでくださいます。ですから、お客様からお客様をご紹介頂けます。本当に感謝しかありません。こんな話をすると、どういう教育や指導をしたのか聞かれることがあるのですが、指導も教育も何もしたことがないんです。私は、本当に人に恵まれていると感じています。

素晴らしいチームワークですね。紹介が出るというのは、本当にお客様が満足されていらっしゃるのだと思います。会社や社長ご自身の今後については、どのようなことをお考えですか?

「継続すること。」そう考えています。15年前の苦い経験があるからというのもありますが、私が管理できる範囲で、私自身や社員の皆さん、そして協力業者の皆さんと楽しく仕事をして、お客様に対しては全員一丸となって出来る限りのことをして喜んで頂こうと考えています。これから先もマンションリフォームの専門店として、そしてマンションリフォームの専門家として、一日一日しっかり出来ることをやっていくことをコツコツ継続していきます。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。