経営者インタービュー詳細

VOL.104

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.25

「医療+生活支援」これを提供することそれが私達の役目そう考えています

医療法人健幸会むかいじま病院

/

理事長大濵 史朗
「医療+生活支援」これを提供することそれが私達の役目そう考えています
大濵先生は、どうして医師の道を志されたのでしょうか?

当院の前身であるさいわい病院を経営していた父の影響が大きいです。しかしながら、父からは病院の後継ぎについて何を言われたこともありませんでした。ですから、大学へ進学するも医学部ではなく農学部へ進学したんです。しかし、将来の仕事として考えた場合、父と同じように医療の道に進みたいと思い、医師になるために大学を中退して、医学部を受験しなおして東海大学の医学部に入学しました。

大濵先生は、どうして医師の道を志されたのでしょうか?
中退してからの受験。大きな決断をされたんですね。それから、どのようにさいわい病院を継がれたのですか?

大学を卒業してからはそのまま東海大学附属病院の医局へ入りました。そこで、医師として様々な経験を積ませてもらっていました。そんな時に、父の体調が年齢的なこともあり思わしくなく、京都に戻った方が良いという話になったんです。そして、京都に戻ることになった訳ですが、いきなり父の病院に入るのではなく、「地域医療」というものを学ぶために堀川病院に入りました。そこで地域医療というものがどういうものなのかを学ばせてもらってから当院に戻って来ました。そして、2014年7月に私が理事長に就任すると共に、医療法人健幸会むかいじま病院として再スタートしました。

ありがとうございます。理事長という立場は、医師という側面と経営者という側面があるかと思いますが経営者として大切にされている信条や考え方とはどのようなことでしょうか?

当院は、向島ニュータウンに隣接しています。そして、この向島ニュータウンは現在高齢化が進んでいます。その為、お見えになる患者様も高齢の患者様が多く、かつ車で5分程度の場所からお見えになる方が多いです。このような地域にある医療機関の経営者として大切にしているのは、医療行為だけを行うというのではなく、その他、地域の訪問介護等を行っている事業者の皆様とも連携して地域の患者様に貢献することを大切にしています。

なるほど。次に、今一番時間を使われていることはどのようなことでしょうか?

昨年までは、前身の病院からの古い体制とでも言いますか旧態依然の運営体制を変えていくことに注力してきました。随分長い時間が掛かりましたが、これには目処がついたので現在はこれから先の事をどうしていくかということを考えています。具体的には、医師、看護師、理学療法士という人員の採用についてと、建物の老朽化問題についてのこの2点について考えることに時間を使っています。

採用と建物の問題ですか。どちらも非常に難しい問題ですね。こちらに戻られてから一番のピンチと言いますか辛かった時期はいつでしたか?

前のお話にも通じるのですが、私は他の病院を経験して戻って来たと言っても、経験してきたのはあくまでも医師の経験です。経営者の経験ではありません。ですから、一人の医師としてのコミュニケーションは何の問題も無いのですが、経営者として関わった場合には摩擦とまでは言いませんがコミュニケーションが上手くいかないことが多かったです。この時期は辛かったです。それも、昨年ようやく古い体制から適正な体制に改善することが出来てこの問題はひと段落しました。

体制の改革というのは、一般法人においても課題とされているところが多いです。ホームページに「地域医療の果たすべき役割の追求」と書かれていましたが、地域の患者様に対しての貢献という切り口で考えた場合、どのようなことをお考えですか?

当院単独での医療行為により貢献ではなく、地域の介護センターや当院の関連法人と連携して患者様に貢献できる体制を作ることが、この向島という地域にある当院の貢献だと考えています。当院の患者様の約90%が高齢化の進んだ近隣地域の皆様なので、その皆様に対して、「医療+生活支援」を提供してい行きます。

医療包括ケアと言われる取り組みでしょうか。そういう取り組みに当たっては理事長お一人では実現できないと思いますが、貴院のスタッフの皆様にはどのような思いをお持ちでしょうか?

当院を必要とされている患者様や地域の皆様のために一緒に頑張っていきたいと思っています。また、昨年からのコロナ禍の影響により、最近はできていませんが、4年程前からやっている月一回の報告会を事態が落ち着いたら再開したいと思っています。報告会と言っても、病院経営に関する数字の報告会ではありますが、病院経営を数字の側面から見える化して、スタッフ全員で病院経営について考える機会を持っています。

病院経営の数字をスタッフに公開されているのはすごいことだと思います。僕は初めて聞きました。医師として経営者として精神的にも肉体的にもご多忙だと思うのですがモチベーションの源は何ですか?それと、最後に今後のことについてもお聞かせください。

とにかくなんとかしなければいけない。今は、そんな思いが強いです。形はどうであれ、地域の皆様に「医療+生活支援」を提供する場所として、とにかく皆様のためになることをやろうと考えています。こういったことを考えることや思うことがモチベーションの源になっているように思います。そして、今後についてですが、やはり当院のあるこの向島という地域に貢献していきたいと考えています。その拠点となるのが、本来であれば当院なのですが当院には建物の老朽化という極めて重大な問題があります。建て替え等、建物ありきで考えると見通しの立たないことが多すぎるので、建物に拘らず、これからは、地域の皆様に必要なものをどうやって提供してくかということを考え実行していきます。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。