経営者インタービュー詳細

VOL.110

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.26

「多くの人を感動させるチラシはつくれません。」しかし「多くの人を行動させるチラシはつくれます。」

サンケイデザイン株式会社

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代表取締役吉川 忠男
「多くの人を感動させるチラシはつくれません。」しかし「多くの人を行動させるチラシはつくれます。」
―吉川社長はどのような経緯で印刷業界に入られたのですか?

1971年に先代の父が自宅で写植業を始めたのが弊社の始まりなんですね。何せ自宅で仕事をしているものですから、嫌でも仕事をしている父の姿を見ますし、作業をしている機械の音や匂いも耳や鼻から入ってきます。そんな印刷やデザインというものに五感を刺激され続ける学生時代を過ごしたので、私の心に「将来は印刷やデザインの世界に入っていきたいなぁ。」そんな思いがごく自然に芽生え、大学を卒業すると同時に印刷業界へと入っていきました。

―吉川社長はどのような経緯で印刷業界に入られたのですか?
―なるほど。卒業後すぐに家業に入られたのですか?

いえいえ、まず東京の大手印刷会社に就職しました。そこで大企業の組織というもの、仕事の流れというものを肌で感じ勉強させて頂きました。しかし、月日が流れる内、私の気持ちの中で「中小企業の組織も経験したい。」という気持ちが芽生えてきたんですね。そして、京都に戻ってきて地元の中規模の広告代理店に転職したんですよ。

―いわゆる「修行」のような期間があったんですね。しかし、大手印刷会社から中小の「印刷会社」へ転職するのではなく、「広告代理店」に転職されたのはどうしてでしょうか?大手印刷会社から中小印刷会社。そこから家業へ。こんなプロセスならわかるのですが。

広告代理店を選んだ、たった一つであり最大の理由は、「自分の世界を広げること」だったんですね。広告代理店で、広告というもの、マーケティングというもの、メディアというものを徹底的に勉強したかったんです。この時期に、現在でも大事にしている「人に伝えて、人を動かす」という考え方のベースが出来たように思います。

―なるほど。DRM(ダイレクト・レスポンス・マーケティング)のような考え方ですね。今でこそ珍しくないと思いますが、 「人に伝えて、人を動かす」と、いう考え方は、当時は画期的だったと思います。広告代理店の手法を印刷業界に流用されてお客様の反応はいかがでしたか?

多くのお客様にご評価頂けたと思っています。具体的に私が何をやったかというと、「お客様が伝えたいことを形に差し上げる。」まずこれに徹したんです。お客様は、「これをなんかいい感じで宣伝できるような、何て言うか、カッコイイ感じのチラシを・・・。」と、いうように何となくのイメージで話されることが多いんですね。それを具体的にカタチにして差し上げるんですよ。そして、それだけではなく、「それをどういう人に」「どういう方法で」「どういうメディアを使って」「伝えるか?」というマーケティング戦略、メディア戦略まで一緒に考え実行していくんですね。もし私が、印刷会社しか知らなければこのようなサービスは提供できていなかったと思います。広告代理店と印刷会社の経験が融合したからこそ提供できるサービスだと誇りを持っています。

―なるほど。DRM(ダイレクト・レスポンス・マーケティング)のような考え方ですね。今でこそ珍しくないと思いますが、 「人に伝えて、人を動かす」と、いう考え方は、当時は画期的だったと思います。広告代理店の手法を印刷業界に流用されてお客様の反応はいかがでしたか?

多くのお客様にご評価頂けたと思っています。具体的に私が何をやったかというと、「お客様が伝えたいことを形に差し上げる。」まずこれに徹したんです。お客様は、「これをなんかいい感じで宣伝できるような、何て言うか、カッコイイ感じのチラシを・・・。」と、いうように何となくのイメージで話されることが多いんですね。それを具体的にカタチにして差し上げるんですよ。そして、それだけではなく、「それをどういう人に」「どういう方法で」「どういうメディアを使って」「伝えるか?」というマーケティング戦略、メディア戦略まで一緒に考え実行していくんですね。もし私が、印刷会社しか知らなければこのようなサービスは提供できていなかったと思います。広告代理店と印刷会社の経験が融合したからこそ提供できるサービスだと誇りを持っています。

―「デザインだけ」「印刷だけ」の会社。ではないんですね。お客様ご自身が自分の悩みの前後についても相談できるところが素晴らしいと思います。しかしながら、そういうプレゼンやプロモーションは吉川社長だから出来るのでは?とも思ったりします。現場のスタッフの皆様はいかがでしょうか?

確かに、誰しもが簡単に出来ることではありません。それをクリアするために、私は、代表取締役という立場ではありますが、現在でも積極的に営業スタッフの営業同行を行っています。そして、実際に私がプレゼンをやって見せます。そういう現場でのリアルなやり取りを見て聞いて肌で感じることで学んでもらっています。

―すごい。僕達のような現場スタッフからするととても勉強になる機会です。他にスタッフの皆様とはどういう関係づくりをされていますか?

社会人としての常識や気遣い配慮は当然の事という前提のもとに、「発言すべきことを発言できる環境づくり」を大事にしています。例えば、飲食系の企画会議を行うとなった場合、飲食業界で働いた経験のない私よりも、飲食業界出身のスタッフの考えや意見の方が的を得ているなんてことがざらにある訳です。にも拘らず、そのスタッフが役職や年齢を気にして自分の意見を言えないとなると会社にもスタッフ本人にも良くありません。それを防ぐために日頃から言いたいことや言うべきことを言える環境作りを心掛けています。

―ありがとうございます。最後に、今後についてはどのようなことをお考えかお聞かせください。

現在、力を入れております、フード系イベント企画運営事業。「Kyoto Love.Kyoto」というコミュニティサイトの運営事業。「きょうとプリント」という印刷通販事業。この3つの事業を現在よりも強固な主力事業に育てることを計画しています。また、これらの事業が弊社にとっての主力事業となるだけではなく、地域貢献にもつながるような事業に育てないといけないとも考えております。京都のお客様のため、市民の皆様の役に立ちたい。その思いをこれからも大切に日々邁進して参ります。



 









※吉川社長のお名前の「吉」は本来「つちよし」ですが、環境依存文字のため画面表示の都合上「吉」としております。

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