経営者インタービュー詳細

VOL.118

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.6.06

街の「家電」屋さんじゃなくて、街の「電気」屋さんですよ。ですから電気に関することならなんでもやりますよ。

京都電工株式会社

/

代表取締役河村 泰三
街の「家電」屋さんじゃなくて、街の「電気」屋さんですよ。ですから電気に関することならなんでもやりますよ。
―御社は、先代のお父様が創業されたとのことですが、創業当時から現在のような地域に密着した街の電気店だったのでしょうか?

商売自体は、祖父が営んでいた紳士服屋が始まりのようです。それから、父が戦後、進駐軍の払い下げの車の部品を市役所に卸すというような事業をしたりした時期があったようです。それから、父は2度の倒産を経験して、最終的に現在の京都電工のベースになる電気店を始めたようです。当時は、家電三種の神器に象徴されるような家電ブームの真っ只中で、とにかく売れに売れたそうです。例えば、テレビなんかはトラックに積んで走っていると、「そのテレビを売ってくれ!」と走って追いかけてくる人が大勢いたくらいすごかったようです。

―御社は、先代のお父様が創業されたとのことですが、創業当時から現在のような地域に密着した街の電気店だったのでしょうか?
―今からは考えられませんが、そんな時期があったんですね!河村社長はどのタイミングで現在の家業に入られたんですか?

大学4回生で留学したんですが、留学させてもらう条件が「卒業後、メーカーに入社する。」ということだったんです。ですから、留学して、卒業すると同時に就職試験なんて受けずに名前だけ書いてメーカーに入社しました。そこで、家電についての色々なことを勉強させてもらって、2年経ったタイミングで退職して家業に入りました。

―なるほど。そんな交換条件があったんですね…。しかし、名前だけ書いて入社だなんて…時代なんですかね…なんかすごいです…。メーカーで修業されて家業に入られたことで、家業の事業や方針に何か変化はありましたか?

事業自体は、地域に密着した町の電気屋さんとして大きな変化はありませんでしたよ。ただ、世の中の電気屋の在り方が少しづつ変わり始めている時期でした。「地域密着型の電気店」と「多店舗展開する電気店」の二極化が始まる時期でした。

―現在は、あちこちで家電量販店を目にするようになっていますが、そんな現在に至る変化のはじまりの時期だったんですね。 何か、社長が事業を継承されてから新しく始められたことはありませんか?

家業を継いだ以上は、自分の色を出したいと思いましたし、町の電気屋さんに収まるのもイヤでした。ですから、当時にしては珍しくパソコンを扱いだしたんです。「Windows95」の発売が、パソコンの爆発的な普及の起爆剤になって瞬く間に広がりましたが、私がパソコンを扱いだしたのは、その何年も前の事でした。そんなタイミングからパソコンを扱っていたので、蓄積されたノウハウや知識、経験は相当量のストックがあるので、現在では、ただのパソコンの販売のみならず、その周辺環境の整備についても相談をお受けしていますよ。

―何と言いますか、「街の電気屋さん」という言葉では収まっていない気がします・・・。その時代その時代で変化して、フィットされているように感じます。では、現在御社の最も得意な分野は何でしょうか ?

「何でもやります!」というのが弊社の売りですね。勿論、出来ないこともありますから、その時は出来ませんと言いますが、とにかく何でも相談してもらいたいとは思っています。また、ここ数年では補助金や助成金を活用した省エネ設備の導入等の提案が得意ですよ。私は、電気屋の社長ですが行政書士ではありません。ですから、補助金等の申請を代行しても費用は頂かないんです。ですから、弊社に依頼してくださったお客様は単純に助成金や補助金を活用して安く省エネ設備を導入していただけるんですよ。

―すごいですね!誰も損しないじゃないですか!それに、省エネ設備が広がると環境にも優しい。他に、御社の特徴は何でしょうか?

「営業活動をしていない。」っていうのが特徴というか自慢ですね。既にお付き合いのあるお客様からのご依頼や相談、ご紹介と自社のホームページからの反響で毎日忙しくさせて頂いています。中でも、ホームページからの問い合わせの多さにはびっくりしています。ビフォーアフター等の事例をとにかくたくさん載せているんですが、それをご覧になられたお客様からの問い合わせが本当に多いんです。

―またまたスゴイ。そんな問い合わせが欲しくて皆さんSEOだのなんだの、あの手この手やる訳ですが…。でも、実際ネットの反響ってどうですか?玉石混合というのか色々なお客様がいらっしゃると思うのですが。

確かに、色々なお客様から反響があります。例えば、「ネットで買った冷蔵庫をマンションの3階まで持って上がって欲しい。」とか。「それウチに言う?」みたいな問い合わせがあります。そういう場合、こちらからお断りしてもいいのかもしれませんが、無下に断るようなことはしないんですよ。そういうお客様に対しても、しっかりコストがかかることをお伝えして、それでもご納得頂けるようなら対応させて頂いています。

―なるほど。ネットで何でも買える時代ですから、そういう問い合わせもあるんですね。今後については、どのようなことをお考えですか?

社内に、親族がいないので、血縁関係のない従業員にどうやって円滑に事業承継するか?が当面の課題かと考えています。今後円滑に事業承継出来るように、考え方やノウハウ、社内実務といった金銭面以外の部分に関して、誰かに一任するのではなく全員で共有して取り組んでもらっています。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。