経営者インタービュー詳細

VOL.121

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.24

おいしくて楽しい野菜だった!そんな経験したことありますか?

京都イタリアン 欧食屋 Kappa

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オーナー石橋 健志
おいしくて楽しい野菜だった!そんな経験したことありますか?
―石橋オーナーが料理の道を志されたキッカケは何だったんですか?

子供の頃から料理が好きだったんですよ。小学校の頃の土曜日なんて急いで帰って自分でお昼ご飯を作ってましたよ。お昼ご飯って言っても、簡単なインスタントラーメンやチャーハンでしたけどね。それに、僕の母親がめちゅくちゃ料理上手だったんですよ。毎年お正月になると親族一同が家に集まって来て、母が手料理を振る舞うんですが、そこで親戚のおじさんやおばさんがしてる話が、「去年の○○はおいしかったなぁ。」とか「今年の○○はおいしいなぁ。」とかいう話ばかりなんです。子供ながらに、自分の作った料理でこんなに人を笑顔にしたりできるのっていいなぁって思ったんです。

―石橋オーナーが料理の道を志されたキッカケは何だったんですか?
―僕のお母さんとは大違い…。親戚が唸るお料理を作れるお母さんってすごいですね。その後のエピソードというかストーリーを教えてください。

そんなこんなで、高校生になったときにアルバイトを始めたんですよ。勿論、飲食店です。仕事として、料理の道に入ったのはこの時がはじめですね。それから、色々な飲食店でアルバイトを経験して専門学校に進んだんですよ。そして、何気なくテレビを見ていた時に、「16歳で独立して云々・・・。」っていう飲食店の経営者の番組を見たんですね。その時は、なんとなく「18歳で独立とかすごいなぁ…。」程度にしか思っていなかったんですが、なんと翌日の新聞の求人欄にその飲食店のアルバイト求人が載っていたんです。そりゃ応募しますよね?ってことで応募して、アルバイトで入って、そのまま専門学校卒業後、就職したんですよ。

―なるほど。何だか劇的というか運命的というか…。素敵ですね。就職されてから独立されるまではどんなことがあったんですか?

アルバイトで入ってそのまま就職したお店では中華をやっていたんですね。それから、会社が業態変更することになって、「中華じゃなくて和食の店を東京でやるけど来る?」みたいな声をかけてもらって、東京のお店で和食をやっていたんですよ。その後、京都の知り合いが独立してお店を始めるっていうときに、「料理長やってくれないか?」って声をかけてもらって、京都に帰って来たんですよ。ここまでで、中華と和食を経験している訳で、経験していない洋食の中でもイタリアンをやろうって思ったんですね。なので、本場の味を知りたくて3か月間イタリアを放浪しました。そして、日本に帰って来て数年経った頃、「独立しよう。」と思ったんですが、全然ダメだったんです。

―ちょっと待ってくださいよ…。怒涛のキャリア形成をかなりギュッとまとめてもらいましたね。全然ダメって何がダメだったん?

店の雰囲気づくり等の「店のこと」。そこで働くスタッフの育成等の「人のこと」。東京から京都に帰ってきた辺りから、経営や人の育成に興味や関心を持っていたのですが、まだまだ勉強不足でした。このままではいけないと痛感したので、以前勤めていた店に戻って「店のこと」「人のこと」や「素材の扱い」や「経営の考え方」等について7年間みっちり勉強しなおして、ようやく独立したんです。

―なるほど。現在イタリアンのお店をされていて、印象的なのが「京都市内で唯一の日本野菜ソムリエ協会認定のレストラン」とのことですが、野菜にフォーカスされたのには何か理由があるんですか?

勤めていた時は、とにかく「安さ」を重要視していたんですね。独立準備の段階でも、その考えは変わらなかったんですが、向日市の母の知り合いの農家さんから「独立するなら野菜どうするの?」って声をかけてもらったんです。それで、折角だったので畑の見学に行って野菜を食べさせてもらったときに衝撃を受けました。味が全然違ったんです。そりゃ当然、お願いしてその農家さんの野菜を使わせてもらうことにしましたよ。さらに、どんな料理にするか考えながら野菜を収穫したかったので、仕入れるのではなく収穫しに行かせてもらってました。

―なるほど。その時の衝撃が今に繋がっているんですね。その野菜をどのようにお客様に提供されているのでしょうか?

「野菜がおいしかった!」で、終わるのではなくて、「体験」として野菜を楽しんでもらっています。具体的には、コースでお出ししているサラダには、三十数種類の野菜を使っているんですね。それで、サラダをお出しするのと一緒にサラダに入っている野菜の一覧を書いた小さな紙も一緒にお出ししています。それを見ながら、「へぇー、これが○○かぁ。」なんて言いながら食事を楽しむという経験や体験をする機会を提供しています。

―体験として野菜を楽しむというのは素敵ですね。また、店名の「Kappa」に込められた思いや、今後についてどのようなことをお考えですか?

私の地元である「京都」。その中でも、私の出身地でありお店で使っている亀岡牛の産地の「亀岡」。また、お店で使う魚を直送して頂いている家内の実家のある「高知」。そして、「健康」と「志」。これらの頭文字である「K」をイタリア語で「Kappa(カッパ)」っていうんですね。店名のKappaは、ここからきているんです。また、現在はオーナーシェフですが、近い将来私は現場を離れて、障がい者雇用を目的としたカフェ併設型のお総菜屋兼八百屋を展開して、農家さんへの貢献、地産地消、廃棄ロス、雇用の創出、これらに取り組んで私の目指す「働く大人が輝く社会」を実現させ、私なりの地域貢献、社会貢献を行いたいと考えています。

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