経営者インタービュー詳細

VOL.122

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.25

『粉もん材料特化型』の御売り言うてますけどええもん色々ありますよ

アサヒ食材

/

代表渡辺 航
『粉もん材料特化型』の御売り言うてますけどええもん色々ありますよ
渡辺さんはどのような経緯でこちらに入社されたのでしょうか?初めからこちらですか?

大学を卒業してからまずは、大阪の食品製造メーカーに1年半程勤めました。それから、父と伯父が経営していた小売店向け食品卸業の会社に入りました。それから、時代の流れと共に大型スーパーがどんどん台頭して来たことで、卸先であった町の小売店がどんどんなくなっていきました。そして、2009年3月、会社は約90年の歴史に幕を下ろすことになったんです。それで、その当時の会社の取引先の一つがアサヒ食材だったんです。アサヒ食材の先代と私の父とは、家も近く近所付き合いもあるくらい親しくしていました。そんな関係だったアサヒ食材の先代が私の父に、「息子さんはどうしてるんや?うちは、娘2人で後継ぎがいないから、良かったら後を継ぐつもりでうちに来てくれないか?」という打診を受けたんです。当時の私は、次の仕事を何にしようか考えているところだったので、この話を受けて2009年12月に入社することになりました。

 

渡辺さんはどのような経緯でこちらに入社されたのでしょうか?初めからこちらですか?
ご縁というか、そういうキッカケもあるんですね。昔、大型スーパーの台頭によって・・・というお話をされていましたが、そういうご経験をされた渡辺さんには、昨年からのこのコロナ禍はどのように映っているのでしょうか?また、どのような対策をされていますか?

弊社は、お好み焼き屋さんやたこ焼き屋さんというような、いわゆる「粉もん屋さん」に特化して事業を行ってきました。昨年からのコロナ禍で、お酒を出すお店やテイクアウトが難しいお店は軒並みお店を閉めていらっしゃいます。取引先が営業されないとなると単純に弊社も売り上げが下がります。現在は、たこ焼き、焼きそば、焼き菓子、お蕎麦、ラーメン、介護施設といった事業者の皆様は動いていますが、当然本調子ではありませんし緊急事態宣言等による何かしらの制限を受けた中で営業されています。元々、弊社は飲食店向けの食材卸業なので、取引先を拡大するにしても今の時期は現実的に難しいです。これからは、売り方を変えるか売り先を変えるか等、今後の展開を考えないといけないのですが動けていないのが現状です。

なるほど。ありがとうございます。飲食店を対象とした事業の拡大は今は難しいですよね…。では、現在のこのコロナ禍、どのようなことに最も時間を使われていますか?

既存顧客のフォローをしながら2015年から参加している同友会の活動にも時間を使っています。昨年の一回目の緊急事態宣言時、何をどうするべきか判断がつかなかったときも、同友会の仲間と色々な情報を共有出来て本当に助かりました。金融機関の借入に関する情報、助成金や補助金等の情報、すぐに役立つ色々な情報が入って来ました。今後も積極的に活動に参加し、もっとより良い情報交換の場になるよう日々活動しています。

昨年は、前例のない経験の中で判断が難しくて足を止めざるを得ない経営者の方が多くいらっしゃったと聞きます。現在、経営者として大切にされている信条や考え方はどういったことですか?

経営理念とビジョンを明確に持つことだと考えています。これも同友会で学んだことなのですが、経営理念やビジョンを明確に持つことによって、的確に判断を下せるようになりましたし、的確な行動を取ることが出来るようになりました。また、やっていいことと、やってはいけないことを明確にしているので、都度都度判断に困るようなことは無くなりました。

ありがとうございます。まだ、コロナ禍の影響が色濃い昨今ですが、お客様への貢献という切り口で考えた場合どのようなことをお考えですか?

日々、お客様からご注文頂く商品を確実に配達するなんて言うことは当然のこととして、配達するのと同時に、長年地域密着でやってきている強みを生かした弊社ならではの情報提供をすることが弊社なりの貢献なんじゃないかと考えています。そうすることで、食品の枠にとらわれず、「渡辺さんにこんなん聞いてもアカンかもしれんけど・・・。」なんて言いながらも色々なご相談を頂けているので、お役に立てているんだななんて感じています。また、スピード感も重要と考えているので相談に対する回答は可能な限り早急にお持ちするようにしています。

スピード感というのはどの業界でも重要なことですね!では、従業員に皆様へはどのような思いをお持ちですか?

「経営者」と「従業員」という立場は、どうやっても変わりません。でも私は、役割の呼び名が違うだけで、全員対等だと考えいます。ですから、経営者だからこれはやらなくていいとかは無いと思っています。そうは言っても経営者しか出来ない仕事というものがあることは事実なので、それをやることは当然なのですが、それ以外の事も積極的に自分からやるようにしています。

 

渡辺さんのモチベーションの源はなんでしょうか?

継続してご注文を頂けることで、信用や信頼をして頂いているんだなと感じるんです。そう感じることが、日々の仕事のモチベーションになっていることは間違いありません。

ありがとうございます。最後に、今後のことについてお聞かせください。

今後については、従来通りの卸売りは勿論ですが、新しく3つの事を考えています。一つ目がネット販売。二つ目が一般消費者向けの小売り。三つ目が宅配やテイクアウトです。今までは、事業者様を対象として卸売りしかやって来ませんでしたが、これから一般消費者の皆様に対する事業も始めていこうと考えています。また、いずれにしても「粉もん材料特化型の卸売店、小売店」としてこれからも地域社会や、事業者様や一般消費者様を問わず幅広いお客様の為、時代に合わせた事業展開して行こうと考えております。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。