経営者インタービュー詳細

VOL.123

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.24

食材には圧倒的な自信がありますよ。じゃないと産地直送海鮮酒場何て言いませんよ。

有限会社 あんじ

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代表取締役中谷 安志
食材には圧倒的な自信がありますよ。じゃないと産地直送海鮮酒場何て言いませんよ。
―御社のホームページの代表挨拶内の「34歳で初めて本格的に包丁を握る」っていう一文が、何と言いますか正直「遅くない!?」的に感じて気になって仕方ないです…。料理というか飲食の道に進まれたキッカケはなんだったのでしょうか?

子供の頃の夢が「コックさん」だったんですね。そんな夢を持ちながらも、親がサラリーマンだったものですから、自分もサラリーマンになるもんだと思っていたんですよ。それで、迎えた大学受験。ここで一浪することになったんですね。これが、今思うとサラリーマン人生と起業家人生の分岐点だったように思います。一浪したこのタイミングで、子供の頃のコックさんの夢を思い出したんです。

―御社のホームページの代表挨拶内の「34歳で初めて本格的に包丁を握る」っていう一文が、何と言いますか正直「遅くない!?」的に感じて気になって仕方ないです…。料理というか飲食の道に進まれたキッカケはなんだったのでしょうか?
―何かドラマチック。それから、いきなり独立ですか?それとも進学ですか?

進学しましたよ。でもね、調理師学校に行くのは何かちがうなぁ。っていう想いが強かったので、飲食店をやるのに必要な資格を調べたんですね。そしたら、「栄養士」っていう資格を持っていたら店を出来ることが分かったので、栄養士になろうと京都市内の大学を受験して合格したんですよ。そして、迎えた就職活動の時期。時代は、バブル真っ只中でした。その時私は、若さ故と言いますか「お金と土地があれば、飲食店できるやろ!」って真剣に思っていたんです。ですから、「お金と土地=不動産」みたいな謎の方程式のもと、不動産デベロッパーを訪問しまくったんです。

―「これだ!」って目標が決まったときのエネルギーには爆発的なものがありますね!それで訪問ってどういう目的で訪問されたんですか?

不動産屋さんに「僕と一緒に飲食店しませんか?」って一件一件訪問するんですよ。すごいでしょ!?そうすると一社「一緒にやろうか!」って言ってくれる会社に巡り合ったんですよ。そして、卒業して入社してオープンしたのがイタリアンレストランだったんですよ。そこで何をやったかというと、総勢約50名のスタッフを取りまとめる「運営側」に入ったんですね。「あれ?子供の頃に思ってたのと何か違う…。」日に日にそういう想いが強くなりました。

―なるほど。子供の頃の夢はコックさんであって運営サイドではありませんもんね。それから、どのように現在に至るんですか?

それから、会社を変わって飲食の運営ではなく現場に入ったんですね。それから1年程した頃、和食居酒屋をやるというプロジェクトの責任者になったんですよ。そして、その時に大阪の西九条の居酒屋さんと衝撃的な出会いがあったんですね。とにかく新鮮でおいしい魚を、びっくりする安さで提供されていたんです。お店はいつも満席で本当に流行っていました。その居酒屋のオーナーから、魚の事、魚の仕入れの事を教えて頂きました。それから、オープンさせた和食居酒屋も成功させることが出来て、オープンから3年目を迎えた頃に起こったのが阪神淡路大震災。そのタイミングで独立するために京都に帰ってきました。

―当初から、現在の「あんじ」のコンセプトのお店をしようと思われていたのですか?

なんせ、大阪の西九条の居酒屋さんで受けた衝撃、大阪で成功させた和食居酒屋の経験が大きく、西九条のお店のような「とにかく新鮮でおいしいお魚をリーズナブルに提供できるお店」を京都で出したらきっと京都の皆さんに喜んでもらえると確信していたので当初から現在のあんじのコンセプトは変わっていません。また、地元である京都の皆様に、「京都にもこんなにおいしい食べ物やお酒があったのか!」と知ってもらいたいですし、感じてもらいたいんです。そして、お店のメニューには、それぞれのストーリーを語れる商品を用意しています。

―新鮮でリーズナブルですか。しかし、リーズナブルと一口に言ってもその捉え方は色々だと思うのですが、その辺りはいかがでしょうか?

確かに「リーズナブル」「安い」ということに対する考えやイメージはまちまちですね。「100円のお刺身」って聞くと安いように感じますが、商品が期待以下だと高く感じてしまいます。逆に「1,000円のお刺身」と聞くと決して安くはないと思います。しかし、商品が期待以上だと安く感じて頂けるはずなんですね。私が提供しているのは正にそういうお料理で、「1,000円でも安い!」「1,000円以上の値打ちがある!」そう思って頂けるお料理を提供しているんです。この思いは、スタッフの皆にも日頃から伝えていて、「1,000円でも安いと思ってもらえるものを作ってください。」とお願いしています。

―「安くておいしい」ということは、本来そういうことのように思います。僕は飲食業界を知りませんが…。「値段以上の価値の提供」これについては、飲食業以外の業界にも言えることだと思います。今後については、どのようなことをお考えですか?

今、琵琶湖の漁師さんとタッグを組んで「琵琶湖の売れない魚で何か出来ないか?」っていうようなことをやっているんです。琵琶湖でとれる魚で売れるのは、「鮎」「モロコ」「ワカサギ」らしいんですね。でも。漁をしていると、それ以外の魚も大量に獲れるらしいんです。その魚を、そのままで売れないなら加工して売ろうということで、ビワマスのコンフィ等瓶詰に出来てお土産になる商品を作っています。また、滋賀県の漁師さんとそんな話をしていると、鉄砲の猟師さんとも出会ったんです。そして、その猟師さんからいわゆるジビエといわれる色々なお肉を頂いて食べてみるととんでもなくおいしかったんです。これは、何とか皆様に知ってもらいたいと思って、ジビエのお店を始めることになりました。そして、そのお店でお土産用に琵琶湖の魚を使った瓶詰等も置こうなんて考えて着々と計画進行中です。こんな風に、その時々のご縁を大切にしながら、「100年続くお店」を作りたいですね。

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