経営者インタービュー詳細

VOL.125

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.24

「竹だけ売る」なんてとんでもない商売だと思いませんか。

有限会社 竹平商店

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代表取締役利田 淳司
「竹だけ売る」なんてとんでもない商売だと思いませんか。
―利田社長で4代目とのことですが、どのような経緯で家業に入られたのでしょうか?

1915年に初代が創業して以来、父の代で3代目な訳ですから、私が4代目として家業を継ぐのは当然という風潮はありました。私自身も小さい頃から、自分で「4代目」なんて言ってましたからね。学生時代に、家業を継ぐということに多少の違和感を覚えた時期はありましたが、大学卒業後と同時に家業に入りましたよ。

―利田社長で4代目とのことですが、どのような経緯で家業に入られたのでしょうか?
―なるほど。1915年に創業されて2015年で100周年を迎えられていますが、100年存続し続けるというのは、並大抵のことではないと思います。様々な変化に対応されてきたと思いますが、先代までのお仕事と、4代目である利田社長のお仕事とでは違いはないのでしょうか?

弊社の業種は、「銘竹卸」と言っているんですが、この「銘竹」という言葉は曾祖父の造語なんですよ。その「銘竹」を創業当時から3代目の父の代まで、銘木屋へ卸していたんですね。私が、4代目を継いだタイミングが丁度時代が変わる境目で、銘木にしても銘竹にしても、家に使う用途が減って来ていて、それに伴って、流通の形態も変わり始めました。ですから、「銘竹卸」という卸売業だけではなく、何か次のアクションを考えないといけないタイミングでした。

―銘竹や銘木の使用用途が少なくなり、それに伴い銘木屋さんも減っていく。僕なら夜も眠れないと思いますが、そんな時にどうされたのですか?

インターネットを活用しました。弊社が初めて自社のサイトをオープンしたのは、「Windows95」が爆発的に普及した1995年のことでした。当時は、全く商売っ気の無いサイトで、尚且つ英語版だけでした。なぜかと言うと、「竹の好きなアメリカ人」をターゲットにしていたんですよ。サイトの公開から2週間くらいでアメリカから問い合わせが来ましたよ。当時、このサイトのお陰で、アメリカの竹協会とのコネクションが出来て、実際に色々な竹を持ってアメリカに行って現地の竹好きのアメリカの皆さんと交流をしたりしていました。そして、今から10年程前に今のスタイルのホームページに変更して、ターゲットを「竹の好きなアメリカ人」から「竹を使いたいけど、使い方もどこに売っているかも分からない、竹に興味を持ちだした東京の30代の設計士」に変更したんです。

―かなりターゲットを明確にされていますね。お父様の代までの、大量注文大量納品というような卸売業から、随分シフトチェンジされたように思います。最近では、銘木屋さんよりも設計士さんとのお仕事が多くなっていますか?

銘木屋さんとの取引が無くなった訳ではありませんが、昔ほどの量はありません。その代わり、先にもお話した設計士さんや個人のお客様とお仕事させて頂くことが増えました。皆様、弊社のホームページからお問い合わせを頂くのですが、ターゲットにしていた東京の設計士さんだけではなく、アメリカ、シンガポール、香港、イギリス等の海外の設計士さんからの問い合わせも多いんですよ。

―なるほど。時代の変化に対応される姿勢が100年続く老舗を作っているんですね。銘竹という伝統とWebという最先端の技術の見事な融合。素晴らしいと思います。卸売業がメインの頃と、現在とでは商売のやり方も全く違うと思うのですが、現在、どのようなことを大切にされていますか?

私で4代目ですが、初代から3代目までも、皆それぞれに色があります。しかし、初代から4代目である私まで変わらない精神があります。それは、「一件一件のお客様を大切にする。」という精神です。特に私の代になってからは、一件一件を大切にするのは勿論ですが、その一件一件のお客様とお話をしているその瞬間その瞬間を大事にしています。現在は、昔卸売りがメインだった頃のように、一定の信頼関係を維持しておけば、追加追加で注文が入る時代ではありません。現在は、お客様とお話しする一回一回が勝負です。

―100年以上続く伝統や文化を絶やすことなく承継されている時点で一定の社会貢献は果たしていらっしゃると思います。利田社長はこの社会貢献ということに対してどのようにお考えをお持ちですか?

少し乱暴な言い方に聞こえるかもしれませんが、社会貢献のために何かをしたことはないんですよ。そして、これからも、社会貢献ありきで何かをするということは無いと思います。しかし、社会貢献が必要ないとかやるつもりがないとか、そういうことを言っているのではありませんよ。私に出来ることは、、銘竹を通しそこに関わる皆様一件一件、お一人お一人を大切に考えることなんです。それを徹底することが、結果的に社会貢献につながると信じています。

―ありがとうございます。銘竹以外に特徴というか、何か発信できそうなことはありませんか?

ここ数年「茶室」について、聞かれることが多くなったので、責任をもってアドバイスが出来るようにと考え茶室建築の勉強を数年前から始めました。それまでは、経験に頼っていたものを体系的に勉強していくことで仕事にも生かせる知識になってきたように思います。

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