経営者インタービュー詳細

VOL.131

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.25

私はワガママです だから❝諦めの家❞は造りません

株式会社 ビーブロックス一級建築士事務所

/

代表取締役岡本 順子
私はワガママです だから❝諦めの家❞は造りません
岡本社長が建築設計の道を志されるようになったキッカケはどんなことでしたか?

私が高校3年のとき、イルミネーションが流行ったんですね。それで、母に何気なく「こういうのやりたい。」って言うと、「それやったら建築ちゃうか?」って言われたんです。それから、学校の先生にも相談したのですが、私は文系だったので建築は理系じゃないと難しいと言われました。でも、芸術系の大学の建築なら可能性があると言われたのでそこを目指すことにしました。それから、文系バリバリの私が芸大を受験するために、アトリエに通って絵の猛勉強をはじめて、京都芸術大学の環境デザインコースへ進むことが出来ました。これが、建築の道に進む第一歩でした。

岡本社長が建築設計の道を志されるようになったキッカケはどんなことでしたか?
なるほど。芸術の世界は何と言いますか独特なイメージがあります。それから、就職されて独立されるまでの事を教えてください。

確かに芸術の世界は、独特だと思います。私が、初めて芸術と触れ合ったアトリエなんて今思い返しても変わった人が多かったなと思います。でも、そこでメチャクチャ絵が上手くて才能に溢れている天才のような人でも、メチャクチャ沢山の絵をかいて努力しているという現実を見ましたし、そんな人たちに追い付こうとするのであれば、彼らよりも沢山の絵を書いたりする努力をすることが当然だということを学びました。それから、とにかく沢山の絵を書くなんてことを続けているうちに評価もされるようになり、自信が持てるようになりました。そういう経験をすることで絵も劇的に上達したように思います。そして、100点がない芸術の世界に心地よさを感じながら過ごした大学生活も終わりを迎えようとしていたタイミングで、大学教授の元教え子さんの経営している設計事務所へ就職することが決まったんです。

 

いよいよ本格的に設計の世界に入られたんですね。設計事務所の修業時代は相当ハードだと聞きますがどうでしたか?

確かにハードでしたが、それよりも最初にお世話になった先生はハラスメントとでも言うのか何と言うのか、そういのに私は馴染めず3か月で辞めてしまいました。それから、次は助教授の紹介で宇治の設計事務所に入らせてもらいました。お給料はゼロ円で。働くっていう事を考えると有り得ないというか考えられないのですが、ゼロだから純粋に「教えてもらっている。」と、思うことが出来たんです。「給料分は売り上げを上げないと!」みたいなことがありませんから。教えてもらうと言っても手取り足取り教えてもらうるはずもなく、毎朝ゴミ箱をひっくり返して、先輩の捨てた図面を拾って家に持ち帰り、しわを伸ばして破れているところをセロハンテープでとめてトレースする。そんなことを続けていました。アトリエや芸大での経験で、大量に書けば上手くなるということは分かっていただのでとにかく大量に書きました。そうしているうちに少しづつ認めてもらえるようになっていったんです。

お給料がゼロ…。究極ですね…。それからどうされたんですか?僕には全く未知の世界なので想像もつかないのですが。

その事務所では結局色々な仕事を任せてもらえるようになり、様々な経験をさせて頂きました。その時間の流れの中で、結婚したんです。その当時、さすがにお給料がゼロと言う訳ではありませんでしたが、数万円でした。結婚して数万円ではさすがに…ということで、一般的?なお給料の頂ける設計会社に転職しました。それから、程なくして子供にも恵まれたんです。子供が産まれてからも私は仕事を続けていましたから、私が仕事中の子供の世話は私の母がしてくれていました。好きな仕事ですから、仕事は楽しいんですけど、子供の事を無視するわけにはいきません。ですから、仕事よりも子供を優先する場面が出てくる訳ですが、その度にクライアントや関係先に謝る訳です。そして、仕事をするときには母や子供に謝って。「私、何してるんやろ…。」って思ったんです。それで疲れてしまって、仕事を辞めて専業主婦になったんです。

 

なるほど。バリバリ働かれていたところからの専業主婦。そして、そこから起業。この辺りはどんな感じだったんですか?

主婦って楽しいなぁなんて思いながら3か月ほどが経過した頃、昔のお客さんや関係先から「空き時間に図面を書いてくれないか?」ってお願いされて、家事や育児の合間に図面を書くようになったんです。それから、「屋号決めたら?」とか、「屋号決まったんならホームページ作ったら?」とか、「店舗設計でSEO掛けたら?」とか、周りのみなさんに色々助けてもらって今の事務所の原型が出来ました。法人にしたのは昨年の事です。

 

今に至るまで、色々なご経験をされて社長になられたんですね。急にカタい質問をしますが、経営者として大切にされていることはなんでしょうか

芸大に行くことを応援してくれた親、起業してから一級建築士の試験勉強をする時間を作ってくれた夫、私の引いた図面通り作ってくれる大工さんや電気屋さん。起業してから、一人で仕事をしているんじゃない。周りの皆様に感謝しないといけないということを心から学びました。私を取り巻く皆の力を合わせて、お客様の思い描く空間を実現させていくことが私たちの社会貢献であり、そうすることが私の使命だと、そんな思いを大切にしています。

ありがとうございます。そういう社会貢献ってステキですね。昨年法人化された訳ですが、それも踏まえて今後についてお聞かせください。

法人化した以上は、とことんまでやってやろうと考えています。株式会社にしたのに、傍から見たら以前と何にも変わってないとか、設計士が私だけとかって、別に良いのかもしれませんが、私の中では整合性が合わないんですよ。私の中で整合性を合わせるために、5,6人の設計士を抱える設計事務所にはしたいと考えています。そして、私たちの年代の設計士全員のヒーローである安藤忠雄さんのように、自分を曲げず貫き通すことが自分にもできたらなと思っています。それを叶えるために、今までは表現性を磨いて来ましたが、これからは一人の人間として経営者として人間性を磨いていこうと日々勉強しています。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。