経営者インタービュー詳細

VOL.132

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.25

お客様の満足のためにまずは社員みんなの満足 これを追求します

株式会社 一番 / 株式会社 ファーストフーズ

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代表取締役髙橋 聖宗
お客様の満足のためにまずは社員みんなの満足 これを追求します
髙橋社長はどういった経緯でこちらに入社されたのでしょうか?

この会社に入ったのは、結婚がキッカケでした。というのも、私の家内は先代の三姉妹の子供の三女だったんです。三姉妹ということもあってか、先代は後継者をどうするか悩まれていたようなんです。そのタイミングで訪れた三女と私の結婚話。そして、結婚前、両家の顔合わせの時、突然何の前触れもなく私の母が、「聖宗が髙橋になったらどうや?」と言い出したんです。私にしてみれば寝耳に水もいいところでしたが、それから、お互いの母同士が握手をしだしたりして、その場でどんどん話が進んでいきました。もう、そうなると私がどうこう言う隙なんてありませんでした。それから、結婚して当時勤めていた自動車会社を退職して入社することになりました。

髙橋社長はどういった経緯でこちらに入社されたのでしょうか?
急転直下とでも言いますか、ご両家の顔合わせがスゴイ展開になったんですね…。いざ入社されてからいかがでしたか?

入社してからは、当然ですがまずは現場に入りました。そして、入社して1年が経とうとしていた頃、社内の色々な事情が重なって社長から「工場長をやれ!」と言われたんです。当然現場には、私よりも社歴の長いベテランのメンバーが多くいます。そんなベテランのメンバーを差し置いて私が工場長になる訳ですから、「絶対にやってやる!」という並々ならぬ覚悟で臨みました。そして、まず取り組んだのが「朝、誰よりも早く出社する。」ということです。夜明け前には出社して、出勤してくるメンバー一人一人を挨拶で迎えました。もちろん、それだけではなく、お弁当の製造という現場の仕事も必死で覚えました。そんなことを続けて、3年が過ぎようとした頃、会社が50周年を迎えたんです。そのタイミングで先代社長から、「社長になってくれ!」と言われたんです。こればっかりは、「流石に勘弁してくれよ・・・。」と思いました。しかしながら、当時先代社長は高齢ということもあり、会社は社長不在のような状態で日々動いていました。そんな状況も十分理解していましたから、「私がやるしかない!」ということで社長を引き継ぎました。

 

50周年の節目と言えど、入社されて3年目での社長就任。現場のお仕事から社長業へはどのように移行されたのですか?先代と日々時間を共有しながら事業を引き継ぐというような緩やかな継承ではなかったのではないかと思うのですが。

確かに、社長業というものを事細かに教えてもらうなんて言うことはありませんでした。だからという訳ではありませんが、当初は肩書こそ代表取締役ではありますが、工場長9割:社長1割とそんな比率で仕事をしていました。当時は、「自分が現場にいればどんな仕事でも対応出来る。」と少しテングになっていたように思いますし、何より社長業から目を背けて現場に逃げていたのかもしれません。そんな状態が1~2年程続いたある日、倉庫の整理をしていた時に一人のスタッフにこう言われたんです。「社長。倉庫の整理とかは自分たちでやりますから、社長は社長業に専念してください。」と。これを言われてハッと目が覚めたんです。そこから、社長業に専念すべく半年掛けて工場長の業務を引き継いで完全に社長業にシフトしました。

 

社長に就任されて今年で7年程経つかと思いますが、現在経営者として大切にされている信条や考え方はどういったことでしょうか?

「社員を信頼すること。社員の働きがいを尊重すること。」この考えを大切にしています。そうすることで、昔は私の指示や判断を仰ごうと鳴りやまなかった私の携帯が、最近ではほとんどそのような要件で鳴ることは無くなりました。社員の皆が本当に良く成長してくれたと思います。また、社員の意見を尊重するために、「自分はこう思うけど、どう思う?」であったり、「自分はこうしたいけど、やってもいいか?」と常に全員に対して聞いています。その為、社員の皆が知らない間に何かが勝手に決まっているということは、弊社ではありません。

 

社員の皆様の成長というのは決して簡単なことではないと思うのですが、どのようなことをされたのでしょうか?

弊社の昔からの体質として、どちらかと言うとトップダウン型の経営がずっと続いていました。そのため、指示を待つということが当たり前になっていたんです。まず、それを変えるために社員の皆に自ら考えてもらう環境作りをやりました。例えば、何かプロジェクトを始めるにしても、私が事細かに指示を出すのではなくて、スタートが遅れてでも皆に考えて実行してもらうようにしています。そして、定期的に個別面談の機会を設けて、社員全員との会話や対話を重要視しています。

 

そういうことを通して社員の皆様の意識が変わっていったんですね。昨年から続くコロナ禍ですが、これに対しどのような対策をされていますか?

まず、全員で取り組んだのが、「無理と無駄」の見直しです。「それ、ほんまにやらなあかん?」という視点で色々な場面で作業や仕事を見直しました。そして、配送ルートや社内の効率を図りました。そして、「出来る。出来ない。」という視点ではなくて、「どうすれば出来るか?」という視点で考えるように意識の改革も行いました。こういったことに昨年から取り組み一旦全ての業務等を絞り込み、これから再度展開して行こうと計画しています。

ありがとうございます。最後に社員の皆様へ日頃お伝えされている事や会社の今後についてお聞かせください。

社員の皆へは、「当てにされる人間になろう。」ということを朝礼などで常々言っています。また、工場長から社長業に専念するようになり、経営者として試行錯誤や紆余曲折がある中で参加した勉強会で経営者とは何か気付くことが出来て以降、全てをリセットしようと思い始めた、「皆で遊ぶ。」ということ。これについては、これからも継続していきたいです。そして、事業については、現在のメインの事業である給食やお弁当だけではなく、もっと広く「食」に関わっていきたいと考えています。現在、弊社のお客様は約2万人程度いらっしゃるのですが、給食やお弁当に限定せず、皆様が望まれるようなアイテムを増やしても良いと考えています。また、地域社会への貢献とでも言いましょうか、お弁当の企画製造から流通まで一貫して出来る弊社の強みを生かし、高齢者の皆様へのお弁当の宅配事業を新しくスタートさせようと現在計画しています。

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