経営者インタービュー詳細

VOL.136

  • 投稿日:2023.5.25
  • 編集日:2023.5.25

後世へ受け継がれるご自身の歴史を動画で残す、結構ステキじゃないですか?

有限会社 楽楓堂

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代表取締役三村 美奈子
後世へ受け継がれるご自身の歴史を動画で残す、結構ステキじゃないですか?
―三村社長、御社のホームページには「フォトグラファーのオフィス」、「写真家の事務所」と紹介されていますが、具体的にはどのようなことをされているのでしょうか?

写真や動画の撮影、編集が現在の事業ですね。

―三村社長、御社のホームページには「フォトグラファーのオフィス」、「写真家の事務所」と紹介されていますが、具体的にはどのようなことをされているのでしょうか?
―なるほど。写真や編集というようなクリエイティブなお仕事には修業期間が付き物っていう勝手なイメージがあります。その辺りいかがでしょう?

はじめは、着物や繊維全般の事を扱う新聞社で働いていたんですよ。ここでは、編集の事を勉強させてもらいました。この時期が、私にとっての編集の修業時代だったと思います。それから、自分で雑誌編集がしたくて独立したんですね。独立してからしばらくは、新聞社時代の経験を活かして、プロダクションとして編集やライティングのお仕事をしていました。

―雑誌の編集がやりたくて独立されたんですね。数年前、ファッション雑誌のドラマを見たような記憶があって相当ハードワークなイメージがあります。それから、現在のように編集だけでなく写真や動画の撮影もされるようになったキッカケというか、その辺りをお聞かせくいただけますか?

そのイメージ通り相当ハードワークですよ。なんせプロダクションとして、雑誌や観光ガイドブックの編集は勿論、写真の撮影もやっていましたから。やらないといけないことは山のようにありますし、雑誌ですから締め切りもあります。「雑誌の編集者」、「ライター」ってクリエイティブでカッコイイ仕事である反面、相当ハードですね。オフィスに泊まる。日付が変わっても仕事をしている。こんなことは日常でしたよ。

―そうそう!そういうイメージです!でも、今はそんな印象は無くて、とても穏やかな時間が流れているように感じますが、激動のプロダクション時代を経てどのように現在に至るのでしょうか?

プロダクションとして15年程経った頃から、少しづつ編集の仕事が減って来たんですよ。私たちがどうとかそういうことではなくて、「本が売れない時代」がやって来たんです。それに伴って、雑誌は少なくなりますし、そうなると私たちの編集の仕事も少なくなっていくんですよね。それが、ここ5年位の話です。それから、夫がフォトグラファーなので写真をメイン事業に移行していったんです。

―なるほど。時代というか何というか…。写真に移行されたから、ホームページもフォトグラファーのオフィスって紹介されているんですね。では、現在得意とされているお仕事と言うか、分野はなんでしょうか?

一つはやっぱり「編集」ですね。ただ、昔のように1週間後とか10日後とか近々の締め切り追われたりするような編集ではなくて、1年とか2年かけて作るような「会社の記念誌」や「自分史」といった書籍の編集です。とにかく丁寧に作る。現在は、こんな編集が得意ですね。二つ目は、やっぱり写真です。出版社、企画会社、デザイン会社から依頼を受けて、イベント、観光、雑誌、食べ物等を撮っていますよ。

―1年2年かけて作る書籍ってなんか素敵ですね。お仕事のスタイルが随分昔と変わられたと思いますが、その辺りどう思われていますか?

昔は、週刊とか月刊の雑誌の編集のお仕事が多かったので、一件一件に時間を掛けたくても掛けることが出来なかったんです。常に締め切りを意識しながらお仕事をしないといけなかったので。そういう編集を10年以上やっていたので、その反動なんですかね。今は、とにかく一件一件きっちり丁寧にやらせて頂くことを心がけています。

―なるほど。御社の特徴といえるようなポイントはどういったことでしょうか?

雑誌の編集をやっているプロダクションは多いと思うのですが、写真のプロダクションは少ないんじゃないでしょうか。日本全国調べたことが無いので分かりませんが、京都においては聞いたことがないように思います。また、最近では動画にも力を入れていて、その動画の撮影から編集に至るまでの全ての工程を一社で引き受ける会社は少ないんじゃないでしょうか。

―動画ですか!ここ数年需要が増えてますもんね!動画って言っても色々あると思うのですが、どんな動画の撮影や編集をされているのですか?

動画の撮影や編集については、まだまだスタートアップの段階で「これで行く!」っていうのはまだ確定していないのですが、「本の代わりに動画で自分を発信したり残したいけれど、どうすればいいのか分からない」という方のご自身の歴史や後世へのメッセージを残すお手伝いをしようかと考えています。また、職人さんや伝統工芸士さんという日本オリジナルの文化のクリエイターさんの、ものづくりのバックヤードを動画で発信して彼らの仕事を残すことで、今一部で危ぶまれている日本の職人文化継承の危機に対し、貢献できればいいなとも思っています。昔は、何かを残すと言えば本でしたが、今は動画がこんなにも身近になっています。「動画=本の代わり」そんな時代にも対応しながら、皆様のお役に立っていきたいですね。

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