経営者インタービュー詳細

VOL.141

  • 投稿日:2023.5.25
  • 編集日:2023.5.25

日本刺繍❝京繍❞本物はしっかり後世に残していかないといけません。

中村刺繍

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代表中村 彩園
日本刺繍❝京繍❞本物はしっかり後世に残していかないといけません。
―御社は中村様が創業されたのでしょうか?それとも、継がれたのですか?

両親から継ぎましたよ。元々は、おじいさんが勤めながら着物の刺繍の仕事を始めたらしいのですが、それを父が専業で引き継いだようです。私は、学校を卒業するのと同時に家業に入りました。私には、現在も一緒に仕事をしている姉がいるのですが、当時から姉も一緒に仕事をしていました。

―御社は中村様が創業されたのでしょうか?それとも、継がれたのですか?
―こちらの西陣という地域柄、着物の刺繍をされているという認識で良かったですか?他に何かされているのでしょうか?

その通りです。創業以来、着物の刺繍の受注と加工を主体に事業をやって来ました。しかしながら、時代の流れとともに着物離れと言いますか、着物自体が売れなくなってきたんですね。着物がよく売れていた時代は、多くの職人さんを雇っていましたが、着物が売れなくなるとともに弊社で働く職人さんの数もどんどん減っていきました。そして、職人さんでいっぱいだった部屋が一部屋空いたんですね。この一部屋を有効に使えないものかと考えて、姉に従来の着物の刺繍の受注と加工は任せて、私が「京繍」の刺繍教室を始めたんですよ。

―西陣の地で「京繍」の刺繍教室ですか。めちゃくちゃイメージがいいですね。いざ刺繍教室を始められていかがでしたか?

西陣と言う場所での「京繍」という本物の刺繍教室というのが、評判がよかったのか生徒さんがどんどん増えていったんです。はじめは、口コミとかが多かったのですが、早々にホームページを作ったんですね。そしたら、さらに生徒さんがどんどん増えたんです。そして、それと同時にホームページから、刺繍の材料を買いたいと言う問い合わせが増えたので、刺繍教室と並行して材料の販売も始めたんですよ。こんな風にあれよあれよという間に、昔からやってきた着物の刺繍の受注と加工よりも、刺繍教室と材料販売の事業の方が大きくなりました。

―すごい。伝統と革新っていうやつじゃないんですか。すごく時代にフィットされているように思います。現在、最も力を入れていらっしゃるのはどういったことですか?

創業以来の着物の刺繍の受注と加工は勿論ですが、最近は、刺繍教室や材料などの販売に力を入れていますね。京都、名古屋、横浜、東京を含め全国に10か所の教室があります。しかし、昨年から続く新型コロナウイルスの影響で教室を開くことが難しい状況が続いています。これを解決するためにZoomによる遠隔の教室を開催しています。また、巣籠と言いますか外出しにくい状況が続いていますので、刺繍の通信教育を始めたんですね。これも評判が良くて、たくさんのお申し込みを頂いています。

―伝統工芸というと保守的なイメージですが、アグレッシブに色々されているんですね!お客様にはどのような思いをお持ちですか?

すごく昔は、弊社で取り扱っているような専門的な刺繍の材料も、街中の手芸屋さんに行けば売っていたようなんですよ。しかし、段々取り扱うお店が少なくなっていって今ではほぼないようなんです。しかしながら、材料を欲しいお客様は一定数いらっしゃって、そういうお客様がインターネットで検索して弊社にお問い合わせいただくようなんですね。そういった方に、刺繍の材料や技術を提供することは当然ですが、京都の美意識という私たちが大切にしている考え方も同時にお伝えできればと考えております。

―京都の美意識。それは、機械による量産品の刺繍では伝えられませんよね。素晴らしいことだと思います。同業の皆様と比較して何か特徴的なことはありますか?

着物の刺繍の受注や加工をやっているところは他にも沢山あります。でも、弊社のように刺繍教室を全国展開していて、インターネットを活用して材料の販売や通信教育を行っているところはないのではないかと感じています。

―そうですね。業種を問わず、中村様の同年代くらいの方で上手にインターネットを使えていらっしゃる方は少ないように思います。そんな中村様には現在の京都における伝統産業はどのように見えていますか?

現在は、「本物を扱う店」だけが残っているように思います。昔、着物が売れていた時期から売れない時期へ向かう過渡期に、価格をどんどん下げていった店が沢山あります。現在においては、過去に価格競争に挑んだ店や価格競争に巻き込まれた店は残っていないんじゃないでしょうか。過去から現在においても、生き残っているお店は、自身の技術にプライドを持ち価格を落とさなかった店だと感じています。

―素晴らしいです。そういうプライドが「京繍」というブランドを確固たるものにしているんですね。今後については、どのようなことをお考えですか?

日本刺繍や京繍を広めるのは勿論ですが、日本の伝統技術をもって作られた糸や布といった材料も日本のみならず世界に向けて発信していきたいですね。インターネットを使った集客については、息子にお願いしているのですが、私も現在取り組んでいるインスタグラムやフェイスブック、ツイッターを継続して頑張って情報発信していきますよ。

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