経営者インタービュー詳細

VOL.144

  • 投稿日:2023.5.25
  • 編集日:2023.5.25

地域の応援団として働くみんなの幸せ地元の生産者の幸せこれからもずっと大切にしていきます。

株式会社 時代屋

/

代表取締役社長井上 雅晶
地域の応援団として働くみんなの幸せ地元の生産者の幸せこれからもずっと大切にしていきます。
―井上社長は時代屋の代表でもありながら、株式会社津乃嘉商店という酒屋さんの三代目でもいらっしゃいますが、どういった経緯で飲食業に進出されたのでしょうか?

私は、神輿が好きなんですよ。その趣味が高じて昔は、日本全国の祭りに行って神輿を担いでいたんですね。そんな折、鳥取に来てくれと声を掛けてもらったんですね。そして、そこで鳥取県内でラーメン店や焼き鳥店を展開されている飲食店の経営をされている方と知り合って親しくさせて頂くようになったんですよ。それから、お付き合いさせて頂くうちに、その方の経営されている会社の社外取締役を務めさせていただくくらい深く関わるようになったんです。そこで、私は酒屋でお酒のプロですから、お酒そのものを提供するのははもちろん、色々なお酒の知識やノウハウを提供させて頂いて、私は焼き鳥のノウハウを学ばせて頂いたんです。

―井上社長は時代屋の代表でもありながら、株式会社津乃嘉商店という酒屋さんの三代目でもいらっしゃいますが、どういった経緯で飲食業に進出されたのでしょうか?
―お神輿が繋いだ縁ですね!それから、どのような経緯で時代屋を出店されたのでしょうか?

酒屋というのは、免許等の関係で様々な規制や決まりがあって、自由に店舗展開することが出来ないんですね。でも、私は多店舗展開したかったんですよ。それで、元々の酒屋のノウハウと鳥取の会社で教えて頂いた焼き鳥のノウハウとを合わせて時代屋を始めたんです。

―そういう経緯だったんですね!1号店を京田辺にオープンされたのはどうしてですか?こちらの伏見区の本社からだと割と距離があるように思うのですが。

当時は、同志社大学の今出川キャンパスよりも京田辺キャンパスの方に学部が多くあり人口が多かったんですね。その割にテナントの賃料は、京都市内と比較して高くなかったんです。そういった、人口とコストのバランスで京田辺を選びました。

―そういうことだったんですね。御社は、京都市内中心部ではなく南部にお店を展開れているように見受けます。戦略と言いますか、どのような思いでそのような展開をされているのでしょうか?






私は、働く社員さんの皆と同じように、地元の生産者の皆様を守りたいと考えているんです。例えば、野菜については、小倉や向島のものを中心に使っています。もちろんこの地域内ですべてはまかなえないので、無いものについては京都府下まで広げて調達しますが可能な限り地産地消にこだわっています。お酒についても同じです。京都の飲食店は、傾向として地元のお酒よりも他府県のブランド力と言いますか知名度のあるお酒を置きがちですが、私どもは地元のお酒にこだわっています。「塩鯛」という日本酒にいたっては、自分たちの手で田植えから始めたお米で作ったお酒ですよ。
―田植えから関わられているお米で作ったお酒ですか。地産地消の究極系と言いますか、すごく愛のあるこだわりを感じます。他に御社ならではの特徴的な取り組みにはどのようなことがありますか?

仕事というのは、「困りごと解決業」だと考えているんですね。お客様の困りごとを解決することは勿論ですが、私たちは私たちと一緒に仕事をする関係者の皆様の困りごとも出来る限り解決しようとしています。例えば、農家さんが「たまねぎの収穫をしたいから3時間ほど人手が必要!」という場面があるとします。そういう場合に弊社のスタッフさんにお手伝いに行ってもらうんですね。お手伝いと言っても、農家さんからお手伝いに行ったスタッフに対して、時給換算でお給料を渡して頂いていますので無償ではありませんよ。これを弊社では「援農」と呼んでいるんですが、農家さんには求人の手間等の面倒なことをやらずに済むうえ、仕入れ業者である私たちが直接お手伝いをするので安心できると喜んで頂いています。

―何と言っていいのか、色々な垣根を越えて一丸となって地域の色々な場面に取り組まれている皆様がすごくステキだと思います。人との関係が希薄になった現代においては本当に温かみのある関り方だと思います。少しかたい聞き方ですが、お客様をはじめ関係者の皆様への貢献という切り口で考えた場合どのようなことをお考えでしょうか?

時代屋にお越し頂くお客様には、地域の集会所代わりのように普段着で気軽にお越し頂きたいと考えています。また、これまでもお話してきましたが地産地消にこだわりを持って地域の応援団となり、地元でお金が回るように活動していこうと考えています。現在のところこれが、弊社なりの地域や社会への貢献だと考えています。

―地域の応援団となり地元でお金が回るようにというのは素晴らしいと思います。そんな思いが色々な地域で広がると素敵ですね。今後については、どのようなことをお考えでしょうか?

まずは、地域の応援団として地域の皆様の食卓を彩りたいと考えているんですね。弊社には、お酒、鳥、餃子という商品があります。それらと、生ビールサーバーを貸し出すことで、外出や外食がしずらいこの時期を少しでも楽しく過ごせるご提案をしていきたいですね。また、時代屋の店舗で駐車場のある所では、地域の農家の皆様と一緒にマルシェを開催しようと考えています。そして、地域の食材のカタログ販売や餃子鍋やご家庭で餃子作りをを楽しめる餃子ミールキット等色々な形で外販することも計画しています。このように、ただ食材や食事を提供するのではなく、それと同時に「楽しさの提案」をさせて頂けるようなことを計画しています。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。