経営者インタービュー詳細

VOL.24

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

ポケットに手を入れないでいるとね、お仕事が入ってくるんですよ。

白本電気工事株式会社

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代表取締役白本 淳子
ポケットに手を入れないでいるとね、お仕事が入ってくるんですよ。
―現在の事業内容を教えてください。

個人のお客様から事業主様、公共事業までにおける電気設備、消防設備工事を事業としています。

 

―現在の事業内容を教えてください。
―なるほど。白本社長は3代目とのことですが、どのようなきっかけで事業を承継されたのですか?

弊社は、昭和43年に私の父が創業しました。そして、昭和47年の法人化を経て平成10年に私の姉が2代目の社長に就任しました。父から姉へ変わったきっかけは、父のガンの発覚です。その後、平成29年に姉から私が事業を承継し社長に就任しました。

 

―なるほど。ご病気がきっかけなのですね。社長就任当時、どんなお気持ちでしたか?

最初は、何をしていいのか分からないというのが率直な気持ちでした。立場が変わるとここまで変わるのかと。当時は、私もそうでしたが従業員たちも色々戸惑っていたと思います。

 

―承継後、会社について何か変えていかれたことはありますか?

姉が社長の時代、従業員たちは良くも悪くも何でも姉である社長に聞いていました。姉に聞いて行動する。これが日常でした。依存していたのかもしれません。そこにはメスをいれました。自分たちで考え行動し、相談する場合は考えた結果を相談するようにと。自主性や主体性を軸とした方針を打ち出しました。

 

―なるほど。従業員の皆様に何か変化はありました?

長年、姉に聞いてから行動するということが当たり前になっていたので、方針を打ち出したからといっていきなり変わるものではありませんが、少しずつ変わってきているようには思います。

 

―他に何かされた施策はありますか?

社長就任の翌年、従業員全員と下請けの業者さん全員と個人面談をしました。

―なるほど。個人面談されて皆様に何か変化はありましたか?

個人面談では、「会社の方針についてどう思っているのか?」ということや、「会社にして欲しいことはないか?」ということについて話しました。答えは様々で、正直に希望や要望を話してくれる従業員もいれば、「今のままでいい。」という従業員もいました。明確な変化があったというよりは、従業員とお互いに思うことを話すことでお互いの距離を縮める効果があったように思います。

―個人面談のような機会以外に、日頃従業員の皆様にお伝えされていることはありますか?

「何かして欲しいことがあれば言って欲しい。」ということは常日頃から言うようにしています。また、年始の初出の日に「みんなが営業マンです。」と言っています。

 

―「みんなが営業マン」とはどういうことでしょうか?

弊社は、本当に職人さんでもある従業員に恵まれています。皆、とにかく仕事をキチンとキレイに仕上げてくれるんです。現場の近隣の皆様と顔を合わせれば気持ちよく挨拶してくれますし、仕事が終われば現場はもちろん、その周辺もキレイに掃除してくれます。ポケットに手を入れると心象がよくないので、皆、寒くてもポケットに手を入れたりせず頑張ってくれています。そんな職人である従業員を現場の近隣の皆様にご評価頂き、その近隣の皆様からお仕事を頂くというようなことがあります。そういうことがあるので、「みんなが営業マン」ということを言っています。

―なるほど。素晴らしいですね。そんな従業員の皆様への率直な思いをお聞かせください。

何度も申し上げますが、弊社は本当に職人さんでもある従業員に恵まれています。創業者の父の時代から受け継がれている従業員への利益の還元を今後も継続していきます。他にも改善の余地があることは積極的に検討していきたいです。

 



◇取材後記

ただひたすら直向きに依頼された仕事と真剣に向き合いクライアントに最高の価値を提供する。そこにこそ感動がある。決して付け焼刃でできることではない。同社の姿勢は古くから日本に存在するマインドであり姿勢のはずだがどこか新しさを感じる。企業戦略において玉石混合の時代。オールドジャパニーズスタイルへの回帰も一つの選択肢として有効なのではないだろうか。

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ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
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