経営者インタービュー詳細

VOL.29

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.26

企業に必要な経営資源は「ヒト・モノ・カネ」なんでいいますけどね「ヒト」を大切にすればあとは勝手についてくる、そう思うんですよ。

株式会社 シェアリングマネジメントサービス

/

代表取締役大浦 公一
企業に必要な経営資源は「ヒト・モノ・カネ」なんでいいますけどね「ヒト」を大切にすればあとは勝手についてくる、そう思うんですよ。
―現在の事業内容を教えてください。

建築・リフォーム業と設計事務所を基幹事業とし、その事業の付加サービスとして引っ越しをメインに不用品回収、生前整理も行っています。

―現在の事業内容を教えてください。
―ありがとうございます。どういった経緯で起業されたのでしょうか?

8年程前、私は大手物流会社に勤めていました。当時、その会社には他の大手資本からどんどん人員が流れ込み、私のように会社に長く在籍している社員を締め出すような動きが活発に起こっていました。当時、私も、よく分からない責任を取らされ地方に飛ばされました。そんな状況が続いたので周りの同僚は続々と退職していきました。そのタイミングで、私は、ある経営コンサルをやっている会社からお誘いを受けたので、そちらの会社にお世話になることにしました。

―なるほど。ここまでのお話だと現在の事業内容と接点がないように思うのですが、その辺りはいかがでしょうか?

はい。その経営コンサルの会社で、「コンクリートリペア」と出会ったんです。その会社では、コンクリートリペアをFC展開する事業の責任者を任されていたのですが、何せ前職は物流の会社に居ましたから、コンクリートも何も実務の経験が全くなかった訳なんです。まずは知らないといけない、経験しないといけないということで、コンクリートリペアについての1週間の実務研修に参加したんですね。この研修に参加して、「他にない技術である」ということと、「競合がいない」ということを痛烈に感じたんです。だから、これを自分で事業化したらいけるんじゃないか?そんな風に考えて独立起業したんです。

 

―なるほど。コンクリートリペアとの運命的な出会いですね。いざ、コンクリートリペアを武器に起業されて当初はいかがでしたか?

スタートの半年間は、本当にしんどい思いをしました。ずっと売り上げが「ゼロ」だったんです。動けど動けど売り上げに繋がらない。後にも先にも、あの時期が本当にしんどかったです。

 

―なるほど。相当のご苦労をされたのですね。それ以降はいかがでしたか?

設立一年目の後半で何とかまとまった売り上げを確保することが出来ました。スタートからの半年は売上こそ上がりませんでしたが、営業活動の足を止めなかったのが功を奏したのだと思います。あの時、足を止めていたら後半の売上も無かったと思います。今の会社も無かったのでないとまで思います。とにかく、本当にがむしゃらに動いていました。

―すごい。僕なら挫けていたと思います。御社は、今年で設立6年目を迎えられますが、転機になるような出来事はありましたか?

コンクリートリペアについて私に色々と教えてくださった師匠のような存在の方がいるのですが、その方に、「大浦さんは、営業向きやけど、職人向きやないな。」と、言われたんです。この時に、「自分は現場に出るのではなく、経営にまわらないといけない。」そう感じ、現在のような現場は職人さんに任せ自分は、営業活動と経営に専念するという経営スタイルを採るようになりました。

 

―なるほど。設立6年目にして、そのような体制を採れていることはすごいことだと思います。今後は、どのようなことをお考えですか?

絶えず世の中の変化を読み解きながら、世界のニーズに合ったモノやサービスを探して事業に取り入れ具現化してリリースする。いつの時代も、これを連続させなければならない。そう考えています。

 

―ありがとうございます。ご従業員様へは、どのような思いをお持ちですか?

「失敗させてくれる社長」そんな社長でいたいと思っています。失敗は必ず肥しになりますから。私自身昔いた大手物流会社でたくさんの失敗をさせてもらいました。その経験が、今の私を作っています。今現場で頑張ってくれている社員のみんなにはどんどんチャレンジしてほしいと思います。また、コロナ禍が落ち着いたら、従業員の家族もみんなで社員旅行やバーベキュー大会をやりたいななんていうこともと思っています。

 



◇取材後記

変化することの必要性や大切さ。ダーウィンの進化論。数多くの経営者、起業家が口にする。しかし、どうだろう。本当に変化や進化を受け入れ、それに向けアクションを起こしているだろうか。小さな青虫が大きな青虫になることは進化でも変化でもない。本質的に何も変わっていないからだ。大浦社長の変化を読み、そのニーズを具現化するというマインド。これは変化を受け入れなければ出来るものではない。現在、最も必要なマインドなのではないだろうか。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。