経営者インタービュー詳細

VOL.35

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

心を癒しともに笑顔になる そんな場所でありたい

cocorepo もうり鍼灸院

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院長毛利 元
心を癒しともに笑顔になる そんな場所でありたい
鍼灸の道を志されたのにはどんなキッカケがあったのでしょうか?

私は、高校球児だったんですね。当時は、ピッチャーをやっていて、自分で言うのもなんですが割と良い成績だったんですよ。でも、大切な大会前に怪我をしてしまったんです。その時に治療の一環で鍼灸院に通ったんです。その時に通っていた鍼灸院の先生も元高校球児で心身ともにとても良くフォローして頂いたんです。その後、大学からも声を掛けて頂いたのですが、どうしても怪我の事が頭から離れず不安を拭い去れなかったので野球を断念したんです。そして、その代わりにといっては何ですが、怪我をして心身共に落ち込んでいた自分をフォローしてくれた鍼灸院の先生のような仕事がしたいと思ったので、卒業後は鍼灸の学校へと進みました。

 

鍼灸の道を志されたのにはどんなキッカケがあったのでしょうか?
怪我で野球を断念せざるを得なくなったのは残念ですが、野球に注いでこられた情熱の新しい矛先が見つかったのは素敵なことだと思います。それから、どのように独立されたのでしょうか?

鍼灸の学校を出てから約5年間は鍼灸院に勤めて修行していました。当初から、5年勤めて独立すると決めていたわけではないのですが、日々過ごす中で、私を指名してくださる方の多さや、勤務時間と報酬とのバランスを鑑みると、「独立してもいいんじゃないか?」と思い出したんです。その思いがピークを迎えたのが、勤めだして5年経った頃でした。そして、勤務時代にやっていた寝たきりの患者様を対象とした往診専門の鍼灸院を2003年に吉祥院で始めました。

 

なるほど。働く時間と報酬のバランスはとても大切ですよね。僕は勤め人ですが、なんとなくお気持ちは分かります。現在は、この長岡京の地で往診だけでなく、来院も出来る院をされていますが、これにはどのような理由があったんですか?

昨年、熱中症にかかって入院したんですよ。往診は全てバイクで回っていたのですが、熱中症でフラフラするので運転どころではないんですが、私を待ってくださっている患者様の為にと、気力だけで持ちこたえていたのですが、それも限界が来てしまい結果入院しないといけなくなったんです。この時に、「往診中心で今後もずっとやっていけるのか?」と考え出したんです。更にそのタイミングで、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が重なったんです。これによって、患者様のお宅を訪問することもままならなくなったんです。この二つのキッカケで、元々の地元であるこの長岡京で地域に根差した鍼灸院を開院することを決意しました。

             



 

そんなキッカケがあったんですね。現在でも往診を継続されているとのことですが、今では地域の皆様もお越しになられると思います。そう考えると、患者様の層が広がったかと思いますが、患者様へはどのような思いをお持ちですか?

往診で伺う先の患者様については、その患者様が良くなることは絶対条件なのですが、周りの介護をされている皆様への配慮とケアと心がけています。患者様の治療が終わってから、少しの間色々とお話をしたり、5分くらいマッサージをしたりとかそんなことをしています。また、この鍼灸院にお越し頂く皆様に対しては、技術的なことは勿論ですが、地域の皆様にとってこの場所が癒しの場や交流の場になればいいなと考えています。

 

介護をする方々への配慮というのは素敵ですね。次に、経営者として大切にされている考え方や信条はどのようなことですか?

「自分の意見や考えをブレさせない。」これをとても大切にしています。また、患者様に対しては、「信頼関係」。これをとても大切にしています。患者様は、一回目よりも二回目、二回目よりも三回目と、来院回数を重ねるたびに、心を開いてくださるとでも言いますか、気付きがどんどん増えていきます。これは、私を少しづつ信頼してくださっているからだと感じています。そんな患者様の思いを裏切る訳にはいきませんので、日々技術面でも知識面でも研鑽に励んでいます。

 

信頼関係。僕の業界でも言える大切なことだと思います。毛利先生が現在一番努力をされていることは何ですか?

私は、今までインターネットを見て見ないふりをしていた超アナログ人間でした。しかし、もういい加減見ないふりをするにも限界が来たように思うので、まずは、Instagramに焦点を絞って試行錯誤を始めていて、最近ではようやく「Instagramを見て来ました!」といってご来院頂く方も少しずつ増えてきました。

 

独立されてから今までで最大のピンチはどのようなことでしたか?また、それをどのように打開されましたか?

何と言っても、昨年の緊急事態宣言です。寝たきりの高齢者様を対象に往診をしていたのですが、緊急事態宣言でお宅に伺うことが出来なくなって、完全に活動がとまりました。この時期が最大のピンチでした。しかし、こんなピンチがあったからっこそ、院を構えるという気持ちに踏ん切りがつきました。そして、金融機関も融資条件を随分緩和していたので、今年の三月にこの鍼灸院を開院しました。

 

今後については、どのようなことをお考えですか?

私は、現在院長として現場で皆様の治療に取り組んでいますが、近い将来、現場を離れてオーナーになろうと計画しています。その為に、現在力を入れているよもぎ蒸しをはじめとした温活や婦人科系のお悩みを持たれている方の改善をもっと体系的にブラッシュアップしてノウハウ化していきたいと考えています。

 

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