経営者インタービュー詳細

VOL.45

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

たとえ専門外の仕事であっても一生懸命やる そうしてきたから今がある

株式会社寺井板金

/

代表取締役寺井 顕司
たとえ専門外の仕事であっても一生懸命やる そうしてきたから今がある
まずはじめに、家業を継がれた皆様にはもれなくお伺いするのですが、極々自然な自然な流れで家業に入られたのでしょうか?それとも、一旦は別の道に進まれたというようなことがあったのでしょうか?

とても自然に家業に入りましたよ。工場の横に自宅があって、小さい頃から仕事場が私の遊び場になっていましたので、私の生活の一部に仕事がありました。ですから、物心つく頃には、「将来はお父さんと同じこの仕事をするんだ。」と自然に思っていました。そして、学校を卒業して他社で修業とかそういう期間は持たずにすぐ家業に入りました。これが今から約26年前のことです。そして、今から約6年前の2016年。父が70歳を迎えるタイミングと私が入社してから20年を迎えるタイミングで代表を引き継ぎました。

 

まずはじめに、家業を継がれた皆様にはもれなくお伺いするのですが、極々自然な自然な流れで家業に入られたのでしょうか?それとも、一旦は別の道に進まれたというようなことがあったのでしょうか?
―ご自宅の横に仕事場があると、仕事と生活の境界線があってないようなものでしょうから、家業に入ることもごく自然な流れだったんでしょうね。それから、代表に就任されて今年で約6年が経とうとしていますが、現在経営者として大切にされているお考えとはどのようなことでしょうか?

弊社は、一般住宅のガルバリウム鋼板といった金属製の屋根や外壁の板金加工と施工を行っています。その為、そのお家に住まわれるお客様の事を徹底的に考えるようにしています。長く住んでいただきたいその一心で仕事に取り組んでいます。しかし、仕事のご依頼をいただくのは、工務店や設計事務所の皆様からであって、そのお家に住まわれるお客様から直接いただく訳ではないんです。ですから、弊社の直接のお客様としては、工務店や設計事務所の皆様になる訳ですが、私はその先のお家に住まわれるお客様を意識して仕事をするようにしています。そうすることが、結果的に工務店や設計事務所の良い評判にもつながると考えているからです。

 

BtoBのビジネスのようで、本当はBtoCのビジネスの側面が強いんですね。寺井社長のスタンスは、工務店や設計事務所に皆様からすると頼もしい存在だと思います。今、寺井社長が最も時間を使われているのはどういったことでしょうか?

「どうすれば、少しでもキレイに仕上げることが出来るのだろうか?」ということを常に考えています。設計事務所からご依頼をいただく住宅にはデザイン性が高い住宅が多いので、そのお家の施工をするときには、やはりキレイな見た目を求められます。しかしながら、デザイン性を優先しすぎて、実用性や安全性、機能性が生活に支障をきたす場合にはその道の専門家としてその旨を提言するようにしています。また、屋根や外壁に関する専門性を高め続けることは当然の事なのですが、最近は建築全般の知識をより深く理解するために2級建築士の資格取得に向けて空き時間を見つけては勉強するようにしています。他社と違うことをしようとするとやはり知識が必要になりますから、資格の勉強を通じて建築の知識を深め、その知識を使い新しいことにチャレンジしてスキルを高めていこうと考えています。

 

2級建築士ですか。すごいですね!工務店や設計事務所の皆様のみならず、一般のお客様からしても非常に頼もしい存在になられることと思います。次に、家業に入られてから今に至るまでで、辛かった時期はいつでしたか?

私が、家業に入ってからお陰様で順調に業績は右肩上がりで推移していたのですが、1997年に消費税が5%に上がったときに少し下がりました。それからまた徐々に右肩上がりで推移していたのですが、2008年のリーマンショックには完全にお手上げでした。弊社だけという訳でも、建築業界だけという訳でもなく、日本経済全体が一時止まったように思います。この時期に「2か月間仕事が無い」そんな状況を経験しました。この時期に、下手に仕事を取りに行くと経済が復調してから足元を見られると言いますか、弊社の信用に関わると言いますか、プラスに作用することが無いので、下手に動くことが出来ず唯々耐えるのみでした。しばらくすると、緩やかに経済が動き出しお仕事も入りだしたのですが、仕事が全くないという経験をしたのはあの時が初めてですし、もう二度と経験したくない本当につらい時期でした。

 

現在のコロナショックと同様に、リーマンショックも辛かったとおっしゃられる皆様は多いです。お仕事がないという状況を経験されたからこそ、お客様に対しては特別な思いをお持ちなのではないかと思いますが、お客様に対してはどのような思いをお持ちでしょうか?

冒頭にもお話しましたが、住まわれるお客様の事を常に考え、長く住んでいただきたいというその一心でお客様のお家と向き合っています。そして、長く住んでいただくためには、とにかく不良個所を徹底的になくしていくことが重要です。そんな当たり前の事を当たり前にやる事こそが弊社なりのお客様に対する貢献だと考えています。弊社がそういう仕事をすれば工務店や設計事務所の評判が上がることに一役買えると思いますし、そうなればまわりまわって弊社の評判も上がると信じています。

 

ありがとうございます。お取引先である、工務店や設計事務所の皆様へはどのような思いをおもちでしょうか?

とにかく感謝です。感謝しかありません。また、色々なお仕事にチャレンジさせて頂ける機会を頂けることをありがたく思っています。他社さんでは、二の足を踏んでしまうようなことにチャレンジをさせてくださったからこそ、スキルが上がり、高度なノウハウがどんどん蓄積されていっています。そして、それが結果的に同業他社との差別化にもつながって、「難しそうなことは寺井さんに頼んだらいい。」「他社に断られても寺井さんならやってくれる。」という評価をいただき、弊社を選んでいただけていると感じています。

 

好循環ですよね。チャレンジすることが結果的に差別化につながるなんて。会社の今後については、どのようなことをお考えですか?

最近、体を使って仕事をすることに限界を感じているんです。ですから、もう少し設備を充実させて体への負担を減らそうと考えています。そうすれば、設備が私の加工スキルを肩代わりしてくれるので仕事の幅が今よりもさらに広がると考えています。そうすれば、今よりも多くのお客様のご要望に応えることが可能となり、より多くのお客様へ貢献できると考えています。

 

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。