経営者インタービュー詳細

VOL.48

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

”お客様の笑顔を引き出すお手伝い” それが私の仕事です

相撲茶屋和–NAGOMI-

/

代表德永 勇気
”お客様の笑顔を引き出すお手伝い” それが私の仕事です
元力士の経営者様と初めてお話させていただくので色々と楽しみなのですが、まずは、相撲の世界からどのように飲食の世界に入られたのでしょうか?せっかくなので、相撲の世界に入られたキッカケ辺りからお聞かせください。

相撲を始めたのは中2の時なんですよ。元々、野球をやっていたのですが、中2の時の担任の先生が相撲部の顧問で家庭訪問に来られた時に家族を巻き込んでスカウトされたんです。そして、入部して1週間後にあった大会でいきなり京都のベスト8になったんです。そして、中3の大会では全国大会に出るほどの実力を付けていったのですが、当の本人の私はというと、「高校に進んだら相撲を辞めて音楽をやろう!」と決めていたんです。しかし、そんな私の思いとは裏腹に、ご縁があってある相撲部屋の親方から直接スカウトをいただいたんです。スカウトをいただいたものの私はやはり音楽がしたかったのでお断りしていたのですが、何度も何度も熱心にこれまた家族を巻き込んでスカウトしてくださったんです。そして、「自分の力を試すチャンスちゃうか?」「チャンスの神様は前髪しかないぞ!」と、そんな話を家族とするようになり私の考えも少しずつ変化し、「3年だけやろう!18歳でダメなら帰って来てやり直そう!」と決意し相撲部屋へ入りました。そして、相撲の世界には15歳から21歳までの7年間いて、最後は大きな故障をしてしまい、思いっきり相撲をとることが難しくなったので引退したんです。そして、引退してからは小さい頃から好きだった料理をしようと決意し、この世界に入ったんです。

 

元力士の経営者様と初めてお話させていただくので色々と楽しみなのですが、まずは、相撲の世界からどのように飲食の世界に入られたのでしょうか?せっかくなので、相撲の世界に入られたキッカケ辺りからお聞かせください。
相撲を始めて一週間で京都ベスト8。翌年に全国大会ですか。そりゃ、相撲部屋の方もほっておかないですよね。料理の世界に入られたのが21歳。その当時から将来は独立すると決められていたんですか?

小さい頃からお祖父さんに、「男なら自分でやれ!」と言われてきて、自分で事業をしていた父親の背中を見て育ったのでそのうちとは思っていましたが、引退してすぐの頃にはまだそこまで考えていませんでした。独立を意識しだしたのは25歳の頃です。小さい頃、子供ながらに料理を作って、家族みんなに食べてもらって喜んで貰うのが好きだった自分を思い出してからです。「どうせやるなら自分でやりたい。」そして、「自分の思いの詰まった料理を食べてもらって皆に喜んで貰いたい。」日に日にそんな思いが強くなり独立に向けて準備を始めていきました。

 

なるほど。元々そういう家系と言いますか起業家や事業主の血が脈々と流れていらっしゃるんですね。そこからどのように今のお店を始められたのですか?

それから、まずは調理師とフグの免許を1年で取りました。そして、料理の勉強はもちろんですが経営の勉強をして、「10年後の35歳で独立する。」という目標を立てました。将来的には、居酒屋をやりたかったので、そこに向けてこの10年でしか出来ない修行をしようということで、居酒屋、中華、ラーメンにそれぞれ3~4年在籍して修行させてもらいました。その中で出会ったラーメン店のオーナーとの出会いが今に繋がっています。ラーメン店に在籍して数年が経過した頃、2店舗目としてベルギービールのお店をされることになったんです。この時に、そのお店の店長をやらないか?とお声掛けいただいたのですが、その時は別の居酒屋さんに行くことに決めていたんです。しかし、数年後その居酒屋さんを去ることになり、その旨をラーメン店のオーナーに話すと、「戻って来てベルギービールの店をやらないか?今は息子がやっているが辞めると言っているし、後やる人がいないのなら閉めようと思っている。」と言われたんです。閉めるのならば私がやりたいと思ったので、後継という形でお店に入り1年程経った頃に、そのお店の設備などにオーナーが投資した経費を精算して事業譲渡してもらって2019年7月に独立する運びとなりました。

 

ということは独立されて半年ほどしてコロナ禍に入っていったんですね。さぁ。これから!という時期だったと思うのですがいかがでしたか?

独立してからしばらくは、ベルギービールのまま営業していたのですが、私自身が本来やりたいことを出し切れていませんでした。なので本来やりたいかたちに変えようとしたタイミングでコロナ禍に入り、一回目の緊急事態宣言がでました。当時は非常に多くの外国人のお客様にお越しいただいていたのですが、それがゼロになったんです。月の売上が一桁の月もありました。この時期は、本当に精神的に追い込まれました。本当にどうしようもなくなって、回りの皆様の助けの言葉にも耳を貸さず完全に内に入ってしまった時期もありましたが、徐々に皆様の助けを借りるようになってから全てがガラッと変わり今まで続けることが出来ています。本当に周りの皆様には助けていただきました。

 

手を差し伸べられた皆様も決して楽では無かったと思うので、本当に素晴らしいお仲間に恵まれていらっしゃると思います。そんな大変な時期を乗り越えられた徳永代表のモチベーションの源とは何ですか?

やはり、お客様の笑顔ですね。お店にお越しいただいて、食べて飲んで笑顔で「ありがとう!」と言ってお帰りになられる姿を見た時は本当に幸せです。そんなお客様のご要望には出来る限りお応えしたいと考えています。私が出来る限りのことをさせてもらって喜んでくださるお客様の笑顔がさらに私のモチベーションを高めてくれます。

 

ありがとうございます。最後に、今後の事についてお聞かせください。

コロナ禍で本当に辛かった時期。周りの多くの方に支えていただき、そして助けていただいたことで今の私があると言っても過言ではありません。ですから、今度は私が助けを必要とされている誰かの力になりたいと考えています。恩返しというようりも恩送りをしたいと考えています。そして、私と関わる全ての皆様が幸せになれるように私に出来ることをやっていきたいです。また、現在定期的にこども食堂をしているのですが、この活動を続けることは勿論ですが、それ以外にも何か子供たちの為に何かを残したいとも考えています。そして、将来的には助け合える仲間づくりを通して、困った人に手を差し伸べられるようなコミュニティづくりをしようと計画しています。

 

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。