経営者インタービュー詳細

VOL.54

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

僕の仕事ですか?"HAPPY創り"ですね

株式会社カイコウ

/

代表取締役竹内 海作
僕の仕事ですか?"HAPPY創り"ですね
竹内社長が福祉の業界に入られたのにはどのようなキッカケがあったのでしょうか?

25年程前、アロマセラピストとして個人事業で活動していた時期があったんですね。その時期に、アロマのメーカーとアロマセラピーのサロンのコンサルを経営されている経営者の方と知り合ったんですね。その方と知り合うまでは、現場たたき上げでやっていたもんですから、中々人からノウハウを教えてもらうという機会が無かったんです。それが、その方に「ウチで修業してみないか?」と声を掛けて頂き、それから10年程その方の会社で修業していました。そして、その会社ではリラクゼーションの一環としてアロマセラピーを予防医療として病院や各種介護施設や福祉施設に営業をして販売していました。福祉業界と接点を持ったのはこの頃が最初ですね。

 

竹内社長が福祉の業界に入られたのにはどのようなキッカケがあったのでしょうか?
なるほど。ありがとうございます。アロマというとアロマオイルを焚いて香りを楽しむイメージだったんですが、それだけじゃないんですね。それから、どのような経緯で経営者になられたのですか?

先程もお話したように営業マンとして仕事に励んでいた訳ですが、あるタイミングで精神的にまいってしまい、アロマの職を離れないといけなくなりました。その後、新しい出会いとして知り合った経営者の方に、「福祉事業を始めるから責任者をやって欲しい。」と声を掛けてもらったんです。これが、私が福祉業界に参入することになったキッカケなんですね。それから、B型支援事業所のスタートアップから携わって2年程経過した頃に事業所として独立して経営者になりました。

 

A型ではなくB型支援事業所をされているのは、最初がB型だったからですか?また、山科区のこの場所を選ばれたのには何か理由があるのでしょうか?

弊社がB型支援事業所をやっているのは、最初がB型だったからですよ。そして、この場所を選んだのには、アロマの会社で営業をし、福祉のキッカケがあったのが山科だったのでこの場所を選びました。

 

なるほど。福祉に関するお仕事をされているとただでさえ地域社会に対する貢献性は高いと思っています。そんな業界において企業経営をされている竹内社長の考えるクライアントへの貢献とはどういうことになるのでしょうか?

弊社のクライアントというと事業所の利用者様ということになります。そして、その利用者様は程度は別にして何かしらの障がいをもたれています。そういう方々は、地域や社会と接点を持つ機会が少ないですが、弊社は、そんな障がいをもった利用者様に対してコミュニティや社会参画の場の提供を行っているんですね。弊社の事業所を通して、社会との接点を持つことで利用者様ご自身が「Happy」になってもらいたいんです。これが弊社なりの貢献でしょうか。

 

みんなで「HAPPY」が創れる事業所を目指すとホームページにも書かれていましたね。これって、どんなイメージで捉えたらいいですか?

みんなでHAPPYが創れる事業所を目指すためには、まずは自分がHAPPYでなければならないと考えているんです。また、一緒に働く職員の皆もHAPPYでなければならないと思うんです。そうじゃないと、利用者の皆様をHAPPYになんて出来ないと思うんですよ。じゃぁ、 HAPPYって何?みたいな話になる訳ですけど、多くの人に共通する幸せの物差しの一つがお金だと思うんですよ。私も職員も、そして何より利用者の皆様が「HAPPY」になるために利益は求めないといけないと考えています。福祉の業界に身を置く者として、こういうことを言うと誤解の元になりそうですが、誰かの犠牲を払って私利私欲を追求して私腹を肥やすっていう意味ではありませんからね。あくまで、利用者様のHAPPYのためであり、利用者様がHAPPYを感じて喜んでくだされば、後から利益が付いてきますから私も職員もHAPPYになれると思うんですよ。これがみんなで「HAPPY」が創れる事業所を目指すっていうことですね。

 

福祉に代表されるような貢献性の高い事業で利益という言葉に代表されるようなお金の話が前に出ると各方面から色々反発が出そうですが、僕は竹内社長の考えに大賛成です。お金というツールで出来ることが多いのは事実ですから。では、職員の皆様に焦点を当てるとどんな思いをお持ちですか?

とにかく、「利用者の皆様をHAPPYに、そして成長させてあげて欲しい。その利用者様の人生を変えるような接し方をしてあげて欲しい。」そんなことをことあるごとに職員の皆には伝えています。また、まずは自分を幸せにして欲しいと言うことも伝えるようにしていますね。

 

自己犠牲・我慢・忍耐の上に成立している福祉事業ではなく、これこそが持続可能で地域社会へ貢献し続けることができる福祉事業の在り方なんじゃないかという印象を受けます。ありがとうございます。今後については、どのようなことをお考えですか?

地方創生事業に関心を持っているのですが、その中でも「幼老事業」に今後は注力していこうと計画しています。農場や牧場、オシャレなカフェやレストランといった集いの場、B型支援事業所の運営する駄菓子屋、そして、保育園と高齢者施設。これらを一か所に集めた複合施設を創って、全国へ発信できればいいな!と考えています。また、この私のインタビュー記事を読んでくださっている企業代表の皆様の中で、私どものような施設と新しい何かを創造するということを考えて頂ける方がいらっしゃれば是非お声掛けください。一度、気軽にランチでもしながらお話しませんか?

 

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。