経営者インタービュー詳細

VOL.6

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

内装の技は「ありがとう」のため 今ある私は「ありがとう」のおかげ

白石装飾

/

代表白石 典正
内装の技は「ありがとう」のため 今ある私は「ありがとう」のおかげ
白石代表は、どういった経緯で現在の内装の業界に入られたのでしょうか?また、そこからどのように独立されたんですか?

高校を卒業してから働き始めたのですが、最初は鉄工所に勤めたんです。それから、華やかでかっこいいイメージのあったインテリアの業界に飛び込んだんです。インテリア関係の仕事というと、スタイリッシュで華やかでおしゃれなイメージがあったのですが、実際働きだすと何のことなく現場作業員でした。さらに、休みは月2回、毎日朝早くから夜22時まで働いて手取り10万円。業界に飛び込む前の華やかでおしゃれなイメージとは違いましたが、いざやってみると仕事自体は、元々何かを作ったりすることが好きだったせいか性に合っていたんです。そして、当時は、男の価値は乗ってる車で決まる!みたいな風潮があったのですが、内装の仕事だけでは車を買うのに十分な収入にはなりませんでしたので、内装の仕事が終わってからアルバイトするという無茶な働き方を時期もありました。結局、その会社では、床の職人やクロスの職人を経験したり、作業だけではなく現場の段取りなどをする番頭等色々な仕事を約11年ほど経験させて頂きました。作業だけではなく全体を通しての段取りまで広く学ぶことが出来たので、独立してもやっていけるんじゃないか?と思い切って独立したのが30歳くらいの頃でした。

白石代表は、どういった経緯で現在の内装の業界に入られたのでしょうか?また、そこからどのように独立されたんですか?
朝から晩まで働いて手取り10万円と言うのはさすがに辛いですね・・・。今年で独立されてから約23年経ちますが、現在経営者として大切にされているのはどういったお考えでしょうか?

内装の技は「ありがとう」のため、今ある私は「ありがとう」のおかげ。という考え方を大切にしています。工事をさせて頂いた後、「キレイになったわ!ありがとう!」とお客様に言って頂くことが全てだと考えています。このお客様からの「ありがとう。」があったので、独立してからの23年間、辛いこともたくさんありましたが続けてくることが出来ました。

白石代表と業界は違いますが、僕もたくさんの方の「ありがとう」に支えられてきました。本当に素敵な言葉ですよね。次に、白石代表が今一番時間を使われていることはどういったことですか?

30歳で独立した当時から、何とかこのインテリアや内装の業界を盛り上げたいと思っているんです。その為に、現在は京都室内装飾協同組合という組織に入り、現在では副理事長をやっています。この組合の活動を通じて、この業界で仕事をしている個人事業主などの事業者の皆様の労働環境の改善に力を入れています。個人事業主の中には、体を使う仕事であるにも関わらず健康保険にも入っていない方も稀にいらっしゃいますので、組合として健康保険制度を導入し、組合に加入して頂ければ健康保険に加入して頂ける仕組みを2年前に整備しました。このような活動を今後も継続して、業界の為、業界で働かれている皆様の為に出来ることを行っていきます。

業界の為に尽力されているのですね。次に、独立されてから今までの間でピンチと言いますか辛かった時期はどんな時期でしたか?

「作業してなんぼの職人」から「工事を請けて利益を残す内装業者」への過渡期が一番辛い時期でした。その時期、従業員が5人ほどいたのですが、従業員の皆には当然ですが給料を支払わないといけない訳です。その当時の建築業界はと言うと「底値の時代」なんて言われるほど、金銭的に厳しい時代でした。ですから、皆の給料を賄うためにはそれなりの数の工事をしなければいけません。その工事は、待っていても入ってくるわけではありませんから私が仕事を取りに行かなければなりません。しかし、そうなると今度は私の給料が減るんです。当時の私は、まだまだ「作業してなんぼの職人」でしたから。そんな時期を何とか乗り越えることが出来たので、従業員こそいませんが今では、「工事を請けて利益を残す内装業者」になれたように感じています。

なるほど。一人の職人さんからステップアップする時期が辛かったんですね。現在、白石代表のお客様は事業者様でしょうか?個人様なのでしょうか?また、お客様に対しての白石代表のお考えになられる貢献とはどういったことでしょうか?

現在のお客様の約9割は、建築会社の皆様です。現在私は、自分の仕事にしても組合の仕事にしても何でも自分でやっています。ですから、仕事や組合に関わらず、いかなる場面でもその瞬間に適正な判断が瞬時に出来るんです。ですから、質問を頂いてから回答までにお時間を頂くこともほとんどありませんから、スピーディーなやり取りを好まれる建築会社のお客様には評価を頂けていると感じています。また、私は一級技能士の資格を取得し、「技術」という見えないものを見えるようにしています。これによって、建築会社のお客様がその先の一般のお客様に、「弊社の職人は一級技能士です。」とご紹介頂くことが出来るので、一般のお客様に安心感を提供することに一役買うことに貢献できているように感じています。

ありがとうございます。資格によって見えないものを見える化されているんですね。次に、白石代表は、経営者にはどのような素質や考え方が必要だとお考えですか?

「やる気」「勇気」「元気」。この3つの気持ちが大切であるように思います。世の中の成功されている皆様にお話を聞くと、その多くの方が「自分は、たまたま運が良かった。」とおっしゃいます。しかし、成功を収められるまでのその過程においては、運に頼ることなく「やる気」「勇気」「元気」の3つの気持ちを持って、ありとあらゆる努力をされ、がむしゃらに仕事に取り組まれたはずなんです。このように、私が経営者に必要だと考えているのは、「やる気」「勇気」「元気」。この3つの気持ちです。

ありがとうございます。最後になりますが、今後のことについてお聞かせください。

現在のような内装やインテリアの事業を継続していくことは当然なのですが、それ以外に、その家に住まわれる方の暮らしをもっと良くできるような設備ビジネスをしたいと考えています。人が生きていくうえで「健康」というのは非常に重要なテーマですから、「インテリア+健康」。こういう方向性で皆様に貢献していきたいと考えています。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。