経営者インタービュー詳細

VOL.60

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

丁寧に育て処理して新鮮なうちに真っすぐ食卓にお届けする。これが「食の基本」だと私は考えています。

株式会社 寺新鶏肉店

/

代表取締役寺田 正一
丁寧に育て処理して新鮮なうちに真っすぐ食卓にお届けする。これが「食の基本」だと私は考えています。
―現在の事業内容を教えてください。

鶏肉卸と小売り業、そして寺田屋という屋号で飲食店を経営しています。

―現在の事業内容を教えてください。
―ありがとうございます。御社の事業はどのようにはじまったんですか?

昭和40年に私の父が脱サラして鶏肉の卸売を始めました。これが、現在の弊社の始まりです。

―なるほど。寺田社長はどのような修業時代を過ごされたのですか?

高校卒業後、1年間京都で修業しました。そこで肉の切り方から小売りまで学びました。京都での1年で外での修業は終わったのですが、家業に戻ってからも父から教えられることは尽きることなく修行の日々が続きました。

―ありがとうございます。御社の「こだわり」についてお聞かせください。

私の父は、深夜の2:30から鶏を絞め、その日のうちに出荷するということに並々ならぬ強いこだわりを持っていました。それが寺新であり、それが寺新のブランドだということです。その分、高かったのですが、その強いこだわりがあったから寺新は現在まで、ずっと生き残ってこれているのだと思っております。

―創業以来の時代の流れの中で、社会も大きく変化してきたと思います。どのような変化がありましたか?

大きな変化を感じたのは、やはり大型のスーパーの出現ですね。創業当時から商店や小売店に鶏肉を卸していましたが、大型スーパーが出てきたことで町の小さな商店や小売店はみるみるうちに下火になっていきました。また、この辺りから買い物をする主婦層の間に世代交代が起こりました。「母は小売店へ。嫁は大型スーパーへ。」そんなイメージです。

―なるほど。それは大きな変化ですね。その時どのように対応されたのですか?

当時、大津の石山に有名な焼き鳥屋のチェーン店の滋賀県一号店が出来たんです。そこと取引きを始めることが出来たのが大きかったです。どんどんチェーン展開が進み店舗が増えて、そこから独立された方のお店とも取引をさせて頂きました。こうして、大型スーパーの出現で落ち込んだ売り上げを何とか補填することが出来たのと同時に、飲食業界へ入り込むキッカケも作ることが出来ました。本当にいい勉強をさせてもらいました。

―ありがとうございます。飲食業界も順風満帆では無かったのではないかと思いますがいかがでしょうか?

そうですね。飲食業界もしんどい時期がありました。私は常々、私どもの扱っている商品が食品なので毎日買ってくれる取引先を探しているんです。そこで目を付けて取引きをさせて頂いたのが京都と滋賀の病院の給食やホテルです。この病院給食やホテルのおかげで、飲食業界が落ち込んだときも乗り切ることが出来ました。

―いつも困難な場面で切られる舵が正確だという印象を受けます。ご従業員の皆様とはどのように接していらっしゃいますか?

現在のコロナ禍で社員さんもパートさんも働く時間が減っています。皆、少なからず不安や不満を感じていると思います。でも、皆取引先から注文を頂くと「ありがたいですね。」そう言ってくれるんです。こんな状況でもそう言ってくれる社員を誇りに思っています。

―ありがとうございます。最後に今後の展望をお聞かせください。

私はまだまだ元気なので、あと10年や15年は現役でバリバリがんばろうと思っています。その10年15年の中で、会社の今後について考えて方針を決めないといけないと考えています。後継者を据えて存続させるのか、それとも、どこかの企業の傘下に入るのか。じっくり時間を掛けて考えていきます。



 



◇取材後記



「ブランディング」というと色々な考え方やノウハウが存在する。しかし、「ブランディングの本質とは?」というと根底に流れる考え方は、たった一つではないだろうか。それは、「約束」だ。寺田社長は、創業以来、「深夜2:30に絞めた鳥をその日のうちにお客様へ届ける。」この約束を守り通している。この約束を守ることが、「寺新鶏肉店」というブランドを確立している。「ブランディング」=「約束」再考してみる価値のある考え方ではないだろうか。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。