経営者インタービュー詳細

VOL.61

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

自動車業界が大きく変わっても お客様への”感謝”と”思いやり” この気持ちは変わらない

株式会社熊野自動車商会

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代表取締役熊野 秀紀
自動車業界が大きく変わっても お客様への”感謝”と”思いやり” この気持ちは変わらない
熊野社長が独立されたキッカケはどのようなことだったのでしょうか?

私が独立したのは、今から5年前の2017年です。それまでは、約30年程西院の整備工場に勤めていました。独立することになったキッカケは、整備工場のオーナーが会社を閉めると決断された為です。当時は、専務という立場で勤めていましたので将来的には、後を継ごうと考えていたのですがそれは叶いませんでした。それから、当時のお客様の応援もありこの地に整備工場を構え独立する運びとなりました。

 

熊野社長が独立されたキッカケはどのようなことだったのでしょうか?
独立されてから、5年程経過しますが現在経営者として大切にされている信条や考え方とはどのようなことでしょうか?

言葉に表すとしたら、「皆が幸せになるためにはどうすればいいか?」と思い考えることを大切にしています。ふとした時には、皆が幸せになる方法や幸せの底上げを考えています。私が、周りの皆の幸せを考えるのは、私の周りの皆が幸せなら、そんな皆に囲まれている私も幸せに違いないと考えているからです。私だけ、弊社だけが一人勝ちはしたくないんです。勝つなら皆で勝ち、会社を大きくして、その会社のある地域ごとステージアップしたいと考えています。

 

確かに幸せな皆さんに囲まれているときっと自分自身も幸せですよね。皆様の幸せについて思いを巡らせることの他に、どのようなことに時間を使われていますか?

これから向こう5年間で自動車業界は大きく変わっていくことが予測されます。ですから、その先を読むことに時間を使っています。そんな近い将来を見据えた時にどうしても自動車だけでは事業が厳しくなります。ですから、ドローン市場や労働人口が減少している農業市場等、他業界への進出を視野に入れて事業展開を色々な角度から検討しています。

 

なるほど。自動車業界はそんな過渡期なんですね。独立されてから今までで最も辛かった時期はいつでしたか?

独立して間もない頃、「お前が独立するなら車を持って行ってやる!」と言って、独立間なしの私を応援してくださるお客様が非常に沢山いらっしゃったんです。めちゃくちゃありがたいことなのですが、創業当時は私とアルバイトの2人でやっていたんです。一日の睡眠時間を1時間にしても、対応しきれませんでした。この時期、私を応援してくださる皆様の気持ちにちゃんとお応えすることができなかったことが本当に辛かったです。とにかく毎日がむしゃらにお仕事をさせていただいて1年程経った頃、1人の整備士さんが入社してくれて一気に変わりました。

 

お客様の気持ちに応えることが出来なかったというのは、何よりも辛い思いをされたのではないかと思います。次に、熊野社長がお考えになられるお客様への貢献とはどのようなものでしょうか?

弊社のお客様は皆さん、お客様からお客様をご紹介いただいているんです。本当にありがたいことで、「感謝、感謝」この思いしかお客様にはありません。そんなお客様に対して、「うちが出来ることは無いか?何かして差し上げられることは無いか?ということを常に考えていて、個々のお客様を心から大切に思い、そして感謝して頂戴するご要望については出来る限り対応するようにしています。そして、「お一人お一人のお客様と真摯に向き合い深くお付き合いをさせていただくこと」。こうすることが弊社なりのお客様への貢献だと考えています。

 

本当に、素敵なお考えですね。熊野社長のお客様に対するそのような思いはスタッフの皆様とどのように共有されていますか?また、スタッフの皆様への思いもお聞かせください。

私の思いや考えは、夜集まったりしたときに伝えるようにしています。その結果、お客様から整備士の指名が入ったりするんです。これは、おそらくスタッフも私と同じ思いでお客様と向き合ってくれている結果だと感じています。そんなスタッフの皆に対しては、何より感謝しかありません。私は、会社もスタッフも同等だと考えていますので、本当に感謝しています。皆のおかげで生かされている。そう考えています。

 

整備士さんの指名が入るってすごいことじゃないんですか!?よほど信頼を獲得されているんですね。熊野社長の思いが浸透している証拠だと思います。まだ先の話になると思いますが、事業承継については何かお考えですか?

私は、なんとしても血族に継がせようとは考えていないんです。人の接し方を含めて周りの皆様を大切にできる人に継いでもらいたいと考えています。そういう能力があるのが私の子供や血族ならそれでもいいですし、血縁関係のないスタッフの方がそういう能力が高いのならそのスタッフが継いでくれればいいと思います。その方が会社にとっても、会社に関係する皆様にとっても良い訳ですから。そして、将来の来るべき日に向けて今の私がやるべきことは、しかるべきタイミングで誰でも継ぐことが出来る会社の土台を創ることだと考えています。

 

ありがとうございます。最後になりますが、今後の事についてお聞かせください。

直近では、海外で需要の高い日本のトラックの輸出を計画しています。この時に重要になってくるのが、「弊社が日本国内でも名の通った整備工場かどうか?」なんです。最近では、外国人も目が肥えていて輸入元の整備工場が名の通った整備工場なら値段が、1.2~1.3倍になるんです。ですから、対外的にそう見られる企業にならないといけません。そして、10年後には100億円企業になることを目指します。

 

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