経営者インタービュー詳細

VOL.63

  • 投稿日:2023.5.23
  • 編集日:2023.5.23

声と言葉で想いをつなぐ

ヴォイスアカデミア

/

代表菊岡 かつら
声と言葉で想いをつなぐ
大阪音楽大学の声楽科をご卒業されて、現在は話し方や発声法のスクールを運営されているとのことですが、音楽にまつわるスクールではなく、話し方などのコミュニケーションのスクールを始められたのには、どのようなキッカケがあったのでしょうか?

私の学生時代は、既にバブルは崩壊していたのですが、まだまだ世の中はバブルの名残が色濃く残っていました。色んな場所で開催される様々なイベントでは生演奏が盛んで、音楽大学の学生である私達には、そのような場所で演奏するアルバイトがたくさんありました。当時の私も学生ではありましたが音楽事務所に所属して、アルバイトでしたがホテルウェディングの音楽に携わらせていただく機会が多くありました。そんな時にピアノで参加したあるパーティーで、コメント一つで会場を感動の渦に巻き込んだり、盛り上げたりする司会者の方を見て「カッコイイ」と感じたんです。それから、音楽大学を卒業してアナウンスの学校に入学して「話の勉強」を始めたんです。音楽大学時代に私が専門にしてい音楽を通して自己表現するということももちろんですが、「話す」というとてもシンプルな自己表現にも魅力や面白さを感じたんです。そして、アナウンス学校卒業後は司会者の事務所に所属することしました。

 

大阪音楽大学の声楽科をご卒業されて、現在は話し方や発声法のスクールを運営されているとのことですが、音楽にまつわるスクールではなく、話し方などのコミュニケーションのスクールを始められたのには、どのようなキッカケがあったのでしょうか?
話すという事には、音楽のように楽譜もありませんから自由度は高い反面それゆえに難しさもあるかと思うのですが、どのような経緯で「話す」ということを人に教えられるようになったのでしょうか?

司会者の事務所に所属してからは、ナレーション等色々なお仕事に携わりましたが、私が好きなのは目の前にいる皆様に向かってお話する司会なんです。私の目の前にいる皆様に私が自己表現をすることで感動を提供し、皆様と同じ感覚を分かち合うことが好きなんです。そんな司会を、コンサートや音楽関係のイベント、ウエディング等でやらせていただいているうちに私一人では対応しきれないくらいのお仕事をいただけるようになってきたんです。そして、私は、折角ご依頼いただいたお仕事ですから無下にお断りするのではなく、仲間の司会者にお願いするようになったんです。これが、司会者事務所を始めるキッカケになりました。そんな活動を続ける中で、お客様から「話し方のセミナーをしてくれないか?」とご依頼をいただくようになり、専門学校から、「人に話して影響を与えるということ、人をまとめるということ、人を動かすということ」、こういったことについて生徒さんに教えて欲しいと依頼を受け3年間教えていました。これが私の「話す」ということを人に教えるようになったキッカケです。その後、就職活動の面接対策、プレゼンテーションセミナーなどを学校関係で教えています。

 

好きなお仕事に取り組まれているうちに自然にお仕事の幅が広がっていくというのは素晴らしいことだと思います。それから、ここで事務所を構えられるまでにはどのようなことがあったのでしょうか?

私の元に1件にクレームが入ったんです。それは、ご依頼のあった結婚式を担当した司会者に対してのもので、その内容というのは、「司会者の方が、私達新郎新婦の気持ちに寄り添ってくれなかった。」というものだったんです。当然ですが、司会者は一生懸命司会をさせていただいた訳ですが、新郎新婦であるお客様にはそうは伝わっていなかったんです。この時に私は、人を理解する力と自分の思いを人に理解してもらう力を司会者は培い磨いていかないといけないと痛感したんです。それから、「コミュニケーション」の勉強を始めました、その中で、メンターともいえるある方との出会いを通して「いつか自分の事務所をつくりたい。」という思いが芽生えるようになり、今から約7年前、この場所に事務所を開設しました。

 

人との繋がりの中で事業が拡大していくというのは本当にステキなことだと思いますが、こうなられる為に小手先のテクニックや方法だけを駆使されているのではないように見受けます。反面、世の中では様々な方法やテクニックが必要とされる風潮にあると思いますがいかがでしょうか?

確かに、そういう一面もあるかもしれません。私のところにいらっしゃる方のお悩みは、大きく2つに分けることが出来るように感じています。一つ目が、スピーチで活舌よく話したいというような「スキル的」なことです。そして、二つ目が人と上手く付き合うための「コミュニケーション力の向上」です。この2つのお悩みの相談が多いです。スキル的なことは学べば改善したり伸ばしたりすることが出来ますが、スキル以外の部分については、表面上のキレイさよりも内面が重要と言うことをお伝えしています。人とコミュニケーションをとって何かを分かち合える瞬間というのは、お互いの感情や価値等の内面にふれたときだと感じています。

 

テクニックで表面を取り繕うのにも限界があることは僕も何となく感じています。司会業をされたり教育業をされたり、話すということやコミュニケーションを通じて多角的に事業を展開されている菊岡代表のモチベーションの源って何ですか?

人って気分の浮き沈みがあるからモチベーションを意識するのかもしれませんが、私は、「楽しく毎日生きていく!」と決めているので、気分はもとより周りのあらゆる環境に影響を受けることが少ないんです。毎日楽しいかどうかは自分次第ですから。私達は「とらえ方」の世界で生きています。他人は変えることができません。自分がどう感じどうとらえるかなんです。ですから、自分が源となって豊かに過ごせる時間を見出すことを意識することが何より大切だと考えています。

 

確かに。仰る通りだと思います。最後になりますが、これからの事についてお聞かせください。

これからは、「イベントと人」、「人と人」という風に、「繋げる」ということをテーマに活動していこうと考えています。今まで私は、人との繋がりの中で仕事をさせていただいて来ました。今まで、出会った皆様が全て繋がっています。「声と言葉で想いをつなぐ」。この思いをこれからも大切に、皆様の笑顔あふれる人生に貢献していきます。

 

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。