経営者インタービュー詳細

VOL.70

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.24

地域に根を下ろし地域の皆様にまずは喜んで頂く。

キッチャン株式会社

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代表取締役金 義広
地域に根を下ろし地域の皆様にまずは喜んで頂く。
―社長は、どんな学生時代を過ごされたのでしょうか?






私の幼い頃は、とにかく野球漬けの毎日でした。リトルリーグから始まり高校まで朝から晩まで野球野球の毎日でした。ですから当然、将来はプロ野球選手になろうと考えていました。しかし、高校2年生のとき、肩を怪我してしまったんです。この怪我で私の野球人生は志半ばで絶たれてしまったんです。肩を治すために色々な方法を試しました。神の手と呼ばれるような先生にもかかりましたが、元の状態まで治ることはありませんでした。
―社長は、どんな学生時代を過ごされたのでしょうか?
―なるほど。高校2年生というと正にこれからという年齢での怪我、僕には想像もつかないような、とてもつらい思いをされたと思います。その後、野球に注がれてきた膨大なエネルギーは、どこに向けられたのでしょうか?

肩を怪我して本来のパフォーマンスを発揮できない状態でも、色々な大学からスカウトの声をかけてもらいましたが、就職の道を選びました。余談ですが、同級生にはプロ野球の道に進んで皆さんもご存知なくらい有名な選手が数人います。自分は、肩を怪我して野球人生を志半ばで諦めたにも関わらず、同級生はプロ野球の道に進んだ。本当に悔しい思いをしました。そして、「自分はプロ野球選手になれなかった。でもプロ野球選手くらい稼ぎたい。」当時、10代の私は強くそう思っていました。

―ありがとうございます。ビジネスに向けられる圧倒的な情熱の種がこの頃育まれたんですね。卒業後は、どのような業界に進まれたのですか?

当時は、不動産バブル真っ只中でした。私も、その流れに乗って不動産業界に飛び込もうかと考えていたのですが、周りから「不動産の仕事はいつでも始められる。今は、銀行に行ってお金や経済等を広く勉強しなさい。」と、アドバイスをしてもらったんです。それで、不動産ではなく銀行の道へと進みました。

―なるほど。不動産と銀行とでは、随分印象が違いますが、どんな銀行マン時代を過ごされましたか?

銀行マン時代、約400軒の顧客を担当していました。到底、記憶だけできめ細やかなフォローや管理できる顧客数ではありません。そこで私が取り組んだのが、徹底的な顧客のデータ管理です。家族構成やそれぞれのお誕生日等知り得る情報をすべて吸い上げ、顧客名簿を作り上げました。そして、お誕生日には自腹で花束を贈るなどして顧客と接点も持つようにしていました。その結果、8年間の在籍期間中、常にトップクラスの成績を収め続けることが出来ました。

―素晴らしいですね。顧客のデータ管理というのは、今でもとても大切なことだと思います。それから、どのような経緯で経営者という道に進まれたのですか?

私の母親が、お好み焼き屋をやっていたんですね。そのお店はとても繁盛していて、母一人で10坪ほどのお店を切り盛りしていました。その母親がある日大病を患ったんです。私の血液も輸血しないといけないというような大病でしたが、無事快方に向かい退院しました。その時から、母のお店を手伝うようになったんです。これが、私が飲食業の道に進むことになるキッカケであり経営者人生のはじまりです。

―なるほど。始まりはお母様のお好み焼き屋さんだったんですね。しかし、随分銀行マンとは勝手が違うと思いますが、その辺りはいかがでしたか?

確かに、銀行業と飲食業では全く勝手が違います。しかし、私が銀行マン時代に行っていた徹底的な顧客の管理とデータ分析のノウハウが役に立ったんです。どういう事かというと、何曜日にが売り上げが伸びずらいのか?という分析から始まり、売り上げが伸びないとき、つまりお客様の来店数が少ないときに来ていただける工夫とターゲットになる客層の分析を徹底して行いました。その結果が売り上げに繋がり、母が一人でやっていた時の約2倍程度の売り上げになりました。このときに、「食べ物商売のおもしろさ」を率直に感じました。

―町のお好み焼き屋さんという人情味あふれるお店と、データ分析というマーケティング手法が融合したんですね。社長は、様々な形態で事業を展開されていますが、「貢献」という切り口で考えた場合、どのようなことをお考えですか?

「地区地域に根を下ろし、地区地域の皆様に安心して喜んでもらう。」そんな風に考えています。その一環として、弊社の「肉の醍醐」では「ビアガーデン」を企画しています。これは、地域のお客様から「皆が安心して食事が出来る場所を作って欲しい。」というお声にお応えするかたちの企画です。このように、地区地域の皆様に安心して喜んでいただきたいと本気で思いますし、地区地域の皆様に求められる店、会社になりたいと考えています。

―ありがとうございます。今後についてどのようなことをお考えですか?

「衣食住」なんて言ったりしますが、弊社では、中でも「食」と「住」にクローズアップしています。飲食を通じて京都の伝統的な日本家屋を感じてもらいたい。そう考えており、その旗艦店が百万遍にある店舗です。飲食を通じて、日本の古き良き文化の継承に貢献していきたいと考えております。

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