経営者インタービュー詳細

VOL.80

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.24

神様の前では“素直でいる”こと“誤魔化さない”こと

下御霊神社

/

宮司出雲路 敬栄
神様の前では“素直でいる”こと“誤魔化さない”こと
インタビュー取材が始まって以来初めて神職をされている方にお話を伺います。一般法人と違い、継いで当然とでもいいますか継ぐとか継がないとかそういう選択肢が無かったりするのでしょうか?

私の父が前の宮司だったのですが、そんな父の方からは一度も継げとか、そういう雰囲気の圧を受けたことはありませんでした。しかし、子供の頃から5月や12月の忙しい時期は手伝いをしていましたので、神社の存在が私の生活の一部に自然に入り込んでいました。そんな環境で育ちましたので、「いずれは継ぐんだろうな。」と思っていました。また、先代の宮司である私の父はと言うと、学者気質なところがあって組織の運営はあまり得意ではありませんでした。これを見ていて自分が早く入った方がよさそうに思えたので学校卒業後はすぐに神社に入りました。そして、時代が流れ父の年齢的な事もあり、平成28年3月に正式に私が宮司を引き継ぎました。

インタビュー取材が始まって以来初めて神職をされている方にお話を伺います。一般法人と違い、継いで当然とでもいいますか継ぐとか継がないとかそういう選択肢が無かったりするのでしょうか?
ありがとうございます。この流れで継承についてお聞きします。次の代への継承については、どのようなことをお考えですか?

現在のところ正式な後継ぎは決まっていません。こんなお話をすると「え?どうするの?」と思われるかもしれませんが、こんなことっていうのは今までの約1000年の歴史の中ではいくらでもあったことなんですよ。戦後に制度が変わって神社で女性が後を継いだなんて言う話も決して珍しい話ではありませんし、私どもの神社においても今までの歴史の中で養子を迎え入れたということが何度もあったので、さほど心配はしていません。

すごく意外です。神職の継承と言うと何としても男というイメージがありました。お話を伺うととても柔軟な印象を受けます。こちらに入られてから辛かった時期と言うとどのような時期でしたでしょうか?一般企業と違い事業存続がかかった資金的な辛さというのは無いとは思うのですが。

確かに売り上げがどうこうという世界ではないので、そういう辛さはありません。しかし、お金とは無縁ということでなく、文化財を維持していくための資金の確保という意味では大変苦労しております。また、そういう辛さとは別に、私が経験した辛さというのは、神社の運営に関わってくださっている役員の皆様、近隣の皆様との関わり方です。神社に入って当初の10年程は、この関わり方に悩みました。関りが上手くいかないと言えども、皆様と行う毎年のお祭りの運営は何とか出来ていました。この頃は、私もまだまだ未熟で、皆様の前でどう立ち振る舞うのかということに悩み続けました。しかし、その悩みも時間の流れと共に、様々な方々との人間関係が増えてお互いの信頼関係が出来ていったことで私が自然に前に出るような環境が整っていきました。この頃には、皆様から「若宮司」と呼ばれるようになっていて、私のカラーを少しづつ出し始めていました。

株主と経営者の関係の様ですね。そこに株式や資金が介在しない分余計に難しい問題があるように感じます。宮司になられてから5年程経過しますが、改めて宮司になられていかがですか?また、今どのようなことに力を入れていらっしゃいますか?

宮司になってから、改めてその責任の重さを感じています。また、私の曾伯父がとても有名な神職だったんです。その曾伯父の写真を見ると私とよく似ているんです。これを見たときに過去との繋がりを強烈に感じたんです。それからというもの、現在の私に至るまでのルーツや歴史を調べてそれらを知るということに力を入れています。

ありがとうございます。参拝者の皆様や地域社会との関わり方についてはどのようなことを感じていらっしゃいますか?

最近、社務所にいて感じるのが参拝者の皆様の真剣度が依然と比べて違うように感じています。違いというのは、拝まれている時間であったり、立ち振る舞いの真剣さです。昨年からのコロナ禍というのもその一因になっているのかもしれません。そんな皆様の困難や難しい思いが一日も早く解決してほしいと切に願っております。そして、地域社会の皆様との繋がりを成り立たせる大きな要素の一つが精神的な繋がりだと考えています。この重要性については、年々強く思うようになっていますし、そのつながりが薄れていくことをとても危惧しています。

 

地域の神社のお祭りよりも、ハロウィンやクリスマスといったイベントがフォーカスされるような風潮にあるように感じています。しかし、精神的な繋がりを保持する一つの手段として、地域の神社でのお祭りがあるとすると短絡的なイベントよりもよほど意味があるように思います。出雲路様も、神職とは言えやはり人な訳で気分の浮き沈みがあると思います。その辺りはどのようにコントロールされていますか?

私も例外なくモチベーションと言いますか気分の波はあります。正直、面倒だなとかしんどいなと思う事もあります。しかし、朝のご祈祷で皆様の為に祈願して一日をはじめると気持ちがスッキリします。それでも気持ちが落ち着かずザワザワして落ち着かないそんな時は、神職である私もやはり神頼みですね。

ありがとうございます。本日は興味深いお話をありがとうございます。今後については、どのようなことをお考えですか?

この下御霊神社を伝統文化を発信する場所、また伝統文化を感じることが出来る場所にしていきたいと考えています。また、参拝者の皆様にとっては拝みに来やすい場所として、神域としてしっかり整備していかなければならないと考えています。またこちらは、日本の歴史や京都の歴史、そして、御所も近いですし、皇室との関りもあります。そういった学校では教わらないような歴史を発信して伝えることで歴史の中にある精神文化を後世に引き継いでいくことに一役買いたいと考えています。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。