経営者インタービュー詳細

VOL.82

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.24

“商いは牛の涎”そんな思いを大切にしています

株式会社山武扇舗

/

専務取締役山本 武史
“商いは牛の涎”そんな思いを大切にしています
創業100年余り。すごい歴史ですね。山本専務で3代目とのことですが、なぜ家業を継ごうと思われたのですか?

私が家業に入ったのは、29歳の時の事でした。それまでは、どこか他の会社に勤めていた訳でもなく、他の扇子屋さんで修業していた訳でもありません。学生時代からのめり込んでいたバンド活動に没頭していたんです。メジャーデビューこそ叶いませんでしたが、全国を飛び回って活動をしていました。しかし、29歳にもなると、同世代のメンバーの中に結婚して子供が出来たりと生活に大きな変化が出てきたり、年齢的にもバンド活動に対するモチベーションを維持することが難しくなったんです。そして、バンド活動に一旦目処を付けて何をしようか考えていたときに父から「どうすんねん?」と言われたので、軽い気持ちで「やってみるわ。」といって家業に入ることになったんです。当時の私はと言うと、それまではバンド活動とアルバイトしか経験が無く、何をすればいいのか分かりませんでした。父も特に何も言わないので何もつかめないまま4,5年経った時に、このままではいけないということで扇子のネット販売をスタートさせたんです。この事業は始めたことでようやく仕事の全貌を把握することが出来ました。そして、これをキッカケに父に成り代わり私が徐々に前に出るようになり現在に至ります。

創業100年余り。すごい歴史ですね。山本専務で3代目とのことですが、なぜ家業を継ごうと思われたのですか?
バンドマンが100年以上の歴史ある扇子屋さんのご主人になられたと。すごいコントラストですね。それから約12年。現在、どのような思いを大切にされているのでしょうか?

私の父が「牛のよだれ」なんていう言い方をするのが、「粘り強く地道にやる」という商売の基本の考え方なんです。この考え方は大切にしています。また、一つ一つの仕事を丁寧にやるという父の仕事に取り組む姿をこれからも踏襲していきたいと考えています。

牛のよだれですか。なるほど。粘り強く地道だからこそ100年以上も続いていらっしゃるんですね。そんな歴史あるお店にいらっしゃる山本専務が今一番力をいれていらっしゃることは何でしょうか?

インターネットを使った発信や物販に力を入れています。通常の業務として、お店にいらっしゃるお客様の接客や扇子の職人さん回り、そして扇子の仕上げ作業があるのですが、それらの仕事の合間にインスタグラムを使った発信を行っています。この活動が功を奏して、最近ではじわじわ問い合わせが増えたりしています。中でも、アメリカ人の方から、「おばあさんが持っている扇子の箱に山武扇舗って書いてある!」というダイレクトメッセージをもらったこともあります。

それは、今ならではと言うかメチャクチャ面白くて感動的な反応ですね!昨年から続くこのコロナ禍はどんな影響がありましたか?

弊社のお客様は、夏扇子と言われる一般的な扇子をお求めになられる一般のお客様と、舞扇子という舞踊や日舞に使う扇子を求められる舞踊や日舞をされているお客様がいらっしゃいます。コロナ禍の影響で、一般のお客様の中でも国内外の観光客のお客様は激減しましたし、舞踊や日舞の様々な会やお稽古も出来ない状況が長く続きました。これによって、売り上げは激減しました。そんな状態が1年以上続き、ここ2ヶ月ほどでようやく舞踊や日舞の会が再開され、それに伴ってお稽古も再開され出しました。まだまだ観光客に皆さんは戻らないものの、少しづつ上向きつつあると感じています。

深刻な影響が出ていたんですね。舞扇子を求められるお客様と個人のお客様とでは対する思いに多少の違いがあるかと思いますが、それぞれのお客様に対する思いをお聞かせください。

舞扇子を求めていらっしゃるお客様は当然舞踊や日舞に関係されている訳です。そういうお客様が、「こういう踊りをするから見繕って欲しい。」と言われたら適格にアドバイスできないといけません。そのアドバイスをするためには、舞扇子についての知識だけではなく踊りについての知識も持ち合わせている必要があります。ですから、踊りの曲や流派も勉強して適格なアドバイスをさせて頂けるよう努めています。そして、個人のお客様については、伝統的な扇子ではありますが、ファッションと同じでその時代や時期に合わせた扇子を作って提案することを心掛けています。

なるほど。伝統を踏襲しつつ現代の感覚を取り入れるというのは、簡単に出来ることではないと思います。高いモチベーションが必要になるかと思うのですが、そのモチベーションの源ってなんですか?

「私がやっているのは100年以上続く家業だという事。そんな家業を自分の代で潰してしまう訳にはいかない。」という思いが根底にあります。この思いがそのままモチベーションに繋がっています。祖父の代から続く伝統的な扇子を如何に現代に合わせていくのか?ということを常に意識して、伝統文化と新しい文化を上手く融合させて店や会社を維持、発展させていかなければいけません。

 

新旧の融合と調和。伝統と革新。現代は、このような一種の過渡期なのかもしれません。これからについてはどのようなことをお考えですか?

舞扇子の世界で「山武さんに聞いたら分かるやろ。」「山武さんに任せておいたら間違いない。」そう言われている父のように、私もならないといけないと考えています。その為に、今以上に扇子のことや踊りの勉強に励んでいかないといけません。また、一般のお客様を対象に普通の扇子屋がやらないようなことに積極的に取り組んで、若い世代に扇子と触れ合って貰いたいと考えています。また、日本にいらっしゃった海外旅行者の皆様に対する発信だけではなく、こちらから積極的に海外に向けて発信するような活動もはじめていこうと計画しています。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。