経営者インタービュー詳細

VOL.86

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.25

売上や利益より心や気持ちの方が大事なこともある

株式会社ペルソナ

/

代表取締役高橋 克典
売上や利益より心や気持ちの方が大事なこともある
高橋社長が、建築・建設の業界に入られてから、現在に至るまでのことをお聞かせください。

私がこの業界に入ったのは16歳の時です。最初は、他社で修業の時期があって20歳の時に、現在も弊社と同じビルにある高橋工務店に入社しました。そして20年程経った42歳くらいの頃に代表取締役に就任し、53歳の頃に高橋工務店の代表を私の弟に託し私は株式会社ペルソナを設立しました。代表に就任したり、ペルソナを設立したと言っても私の仕事はずっと変わらず、現場にもどんどん出ていきますし、図面を書いたり積算したりなんていう事もバンバンやっています。社長業だけに専念するっていうタイプではありません。また、高橋工務店から独立した理由は、「もっと地球環境のために、自分に出来ることはないのだろうか?」と考えて、太陽光発電といったような環境に配慮した家づくりや街づくりに取り組みたかったからなんです。私が、そういう活動を通して頂いたお仕事を高橋工務店と一緒にやったりするので、良い関係で仕事が出来ているように思います。

高橋社長が、建築・建設の業界に入られてから、現在に至るまでのことをお聞かせください。
ありがとうございます。今でも現場に出られる現役バリバリの社長なんですね。高橋工務店の時代から考えるとかれこれ20年程度は代表をされている訳ですが、社長とはどういう立場だとお考えですか?

まず、社内においては全体のリーダーとして社員の皆が仕事をしやすい環境を整え、会社が目指すべき方向へ導いていくことだと考えています。また、自社の事だけを考えるのではなく、地域社会との共存とでも言いますか、地域社会の皆様への貢献も社長の大切な仕事の一つだと考えています。その一環として弊社では、夏休みの時期に地域の子供たちに弊社に集まってもらって開催する「木工教室」をかれこれ30年近く行っています。地域の子供たちにこういう機会を提供することで、子供たちやその親御様たちに「モノづくり」に触れあってもらいたいと考えています。昨年からのコロナ禍で去年と今年は開催出来ていませんが、これが落ち着いたらまた開催したいと考えています。

モノづくりなど御社独自のイベントを通して地域社会と関わりを持たれるのって素晴らしいですね。次に、経営者として大切にされている信条や考え方とはどのようなものでしょうか?

会社として、売り上げを上げたり利益を上げたりすることは当然のことですし求めないといけないことです。しかし、そこにばかり囚われるのではなく、心や気持ちといった人間として大切な事も大切にしないといけないと考えています。「自分がどうではなく相手にとってどうなのか?」そういうことを一番に考えています。

「相手にとってどうなのか?」本当にそうだと思います。高橋社長が現在一番努力されている事や時間を使われているのはどういうことですか?

弊社ペルソナでは、従来の建築や建設だけではなく不動産事業にも取り組んでいます。不動産事業と言っても、一般的な売買仲介だけではなく、事業性の不動産事業です。そうなってくると、単純な売買の知識だけではなく、税務や周辺知識が必要になって来ますので最近では、この辺りの勉強に相当の時間を使っています。また、最近では海外の設計士さんやお客様とお話しすることも多々ありますので、英語の勉強にも取り組んでいます。

―ありがとうございます。次に、言える範囲で今までの最大のピンチをお聞かせ頂きたいのですが。

おかげさまで、会社の存続にかかわるようなピンチらしいピンチにはさらされずここまで来ることが出来ました。しかしながら、ピンチではありませんが慢性的に人の課題には悩みを持っています。どういう事かと言うと、私達の仕事は現場監督なんです。その為、「品質」「工期」「予算」の3つの管理を上手にすることが求められます。そして、さらに図面を書かなければいけません。これらの仕事を円滑に回せるようになるには、教えてもらうことと経験の二つの要素が非常に重要になって来ます。この要素をバランスよく学んでもらうというのが非常に難しいんです。

なるほど。では、クライアントへの貢献という切り口ではどのようなことをお考えでしょうか?

お客様に常にベストの選択をして頂けるように、常に「最善の提案」と「ベストな情報提供」を行っています。また、お客様の想像や期待を超えるような仕事をするように心掛けています。そうして、何十年経っても安心して住み続けることが出来る家を作ることが、私なりのお客様に対する貢献だと考えています。

スタッフの皆様へはどのようなことをお話されていますか?

「優先順位を常に意識し考えること。」そうするように話しています。ただ、それを意識しすぎると、自分や家族、そして、会社を犠牲にしてまでもお客様を一番に考え行動してしまいます。これは、正しいことなのですが、自分や家族、そして会社を犠牲にしてまでもお客様を一番に考えてしまうと、自分も家族も会社も潰れてしまいます。現場に出たらお客様を一番として、お客様のためになるかどうかを第一に考えて欲しいと思います。しかし、それ以外の場面では、自分や家族、そして会社の優先順位を上げて考え行動して欲しいと話しています。

 

ありがとうございます。会社の今後についてはどのようなことをお考えですか?

これからは、創業以来の建築や建設だけではなく、不動産業を通じて地域社会に貢献していきたいと考えています。また、単純に不動産を売買したり、用地を仕入れ家を建てて再販するということだけではなく、相続に代表されるような不動産をめぐるあらゆる相談にも的確なアドバイスが出来るような体制を作っていこうと計画しております。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

代表取締役営業マン小原です
MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです
MANAGER INTERVIEW VOL.152

”感動探求業” 私たちは感動の価値を上げる探求のプロです

代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う
MANAGER INTERVIEW VOL.149

”大きく””変わる” それを”大変”と言うのなら 大変な時こそ大事だと思う

代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。