経営者インタービュー詳細

VOL.93

  • 投稿日:2023.5.24
  • 編集日:2023.5.24

ケーキってね人と幸せを繋ぐ素晴らしいツール、そう思うんですよ。

Caf‘e m-alie カフェ マリエ

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オーナー長澤 とよ海
ケーキってね人と幸せを繋ぐ素晴らしいツール、そう思うんですよ。
―長澤さんは、どのような経緯でこちらにお店を開かれたのですか?

私は北海道出身なんですが、北海道に居た頃は学校の保健室の先生だったんですね。それから、ご縁があって京都に引っ越してきて、小さい頃から勤めるのが夢だったケーキ屋さんで働くようになったんですね。北海道に住んでいた私には、「京都」っていうのが憧れの地で、尚且つその京都で小さい頃から働くことが夢だったケーキ屋さんで働けた!うれしくて夢中でケーキ作りの修行に励みましたよ。それから結婚をして出産をして子育てをしていたんですが、子供のアレルギーで悩んでいるママ友から、「子供に安心して食べさせてあげることの出来るケーキが無い!」っていう相談をよく受けてたんです。「よし!ないなら私が作ろう!」と、自宅の一画で夢だった「スイートショップ ナガサワ」というアレルギーをお持ちの方でも安心して食べられるケーキ屋さんをはじめたんですよ。

―長澤さんは、どのような経緯でこちらにお店を開かれたのですか?
―なるほど。前身のお店があったんですね。しかし、アレルギーをお持ちの皆様は嬉しかっただろうなと思います。甘いものを食べる幸せが手に入った訳ですから。それから、現在のこちらのお店を開かれるまではどのようなことがありましたか?

自宅の一画で始めたお店では、とにかく来る日も来る日もケーキを作り続けていました。私のケーキを求めてくださるお客様のため、とにかく作り続けました。大好きなケーキ作りなので度を越えて作りすぎてしまったんですね。体がボロボロになってしまったんですよ。指や手や腕、色々なところが悲鳴をあげていました。そして、作ること難しくなって常設のお店を予約制のお店にしました。体中が痛くて、ゆっくりゆっくりとしか作業が出来ないので予約制にして作る数を減らしたんですね。そんな時に、「自分で作れなくても、人に教えることはできる。」そう思ったんですね。それから、「アレルギーでも何も気にしないで食事が出来て、心も身体も満たされる場所を提供したい。」そんな思いをカタチにすべく現在のこちらのお店を開きました。

―「アレルギーでも何も気にしないで食事が出来て、心も身体も満たされる」って、すごくステキですね。こちらの場所を選ばれたのには何か理由があるのでしょうか?

最寄り駅の近鉄「小倉」駅、そこからお店までの道中、そしてお店の入り口からお店の中まで、その全てがバリアフリーなんですよ。そんな物件が他に無かったのでここを選びました。

―なるほど。ますます素敵ですね!単純な街のケーキ屋さんやカフェではないんですね。そんな長澤さんの思いをスタッフの皆様にどのように伝えていらっしゃいますか?

「お店のミスは全員のミス」これを、スタッフの皆には伝えています。皆がそう考えられるように、うちのお店では、キッチンやホールといった持ち場を、全員で回すようにしているんです。男性スタッフはキッチンで、女性スタッフはホール。うちではそんな風に固定することはありません。なぜかというと、スタッフの皆にお客様の笑顔や喜ばれている姿を見て、自分自身で喜びを感じて欲しいんです。また、私のお店では、2年間勤めて、本人の仕事に対する姿勢や考え方や思いの全てが、「製菓衛生師」や「調理師」になるに相応しいと私が判断した場合だけ、それら資格の試験を受験するのに必要な受験資格を証明してあげるんですね。

―なんかすごい。そんなことしてくれるお店があるんですね。将来、製菓や調理の道に進もうと考えていらっしゃる皆様にはとても素晴らしい制度ですね。そんなスタッフの皆様と、お店の今後についてどのようなことを話され、長澤さんご自身はどのようにお考えですか?

もう昨年から続くことですが、このコロナ禍で外出したり、外食したりすることが思うように出来ませんよね。そんな中でも、皆さんに喜んで頂くにはどうすればいいか?なんてことを全員で話しています。そして、「ケーキ+α」をテーマにしていて、「+α」で喜んでもらおうと色々考えています。。今企画しているパーティーセットは正にそれを象徴するような企画です。「ケーキ+食事」を自宅で楽しんでもらえたらと考えています。こんな風にお客様の楽しい時間を演出したり、私もスタッフの皆も一緒にお客様との幸せな時間を共有したいと心から考えています。

NEW INTERVIEW新着インタビュー

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MANAGER INTERVIEW VOL.154

代表取締役営業マン小原です

代表取締役 小原 美秋
PKS株式会社
ざっくばらんにお話すると、現在のPKS株式会社を始めるまでに3回事業を興したことがあるんです。まず、1回目は若い頃に飲食店をやりましたが、上手くいかずに閉めることになりました。それから、呉服屋に勤めたんです。当時の日本はバブル真っ只中。高額な着物と言えど飛ぶように売れました。そして、私はその呉服屋で学んだ販売手法を持って独立して呉服の販売を始めました。これが時代の追い風もあり大当たりしたんです。ピーク時は従業員100名で年商18億円を記録しました。しかし、その後訪れたバブル崩壊。この影響をまとも受けて7年で倒産することになりました。その後、その会社の後始末を私一人で呉服や宝石を販売しながらやっていましたがいよいよ行き詰ったんです。そして、公共事業をメインにしていた建設コンサルの会社に就職したんです。当時私は37歳でした。しかし、3年程経った頃、公共事業が下向きになってリストラが始まったりと会社ガタガタ揺らぎ始めたんです。当時私は40歳。転職を決意し、当時の取引先の紹介でプラスチック製品の製造を行う会社に転職することになりました。  
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MANAGER INTERVIEW VOL.152

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代表取締役 田中 光照
株式会社サンライズ
現在のビデオ試写室の前身の事業を、建設系の会社が経営していたんです。前身の事業というのはテレクラなんですが、そのテレクラに20歳の時にアルバイトで入ったんです。これがキッカケです。当時のアルバイトのメンバーは仲のいいメンバーで、働いているという感じよりも、ただそこに居てワイワイしているという感じでした。仕事が8時間で終わっても家に帰ってやることが無いので仲間のいるその場所に16時間位いるというようなことが日常でした。感覚的に皆が8時間で「1」する仕事を、私は16時間かけてやっているような感じでした。つまり8時間では「0.5」な訳です。ですから、上層部は「あいつを辞めさせろ。」と言っていたようなんですが、私の上司であり会社のナンバー2の先輩がそれを止めてくれていたようでした。その期待を受けてという訳ではありませんが、長時間店にいると次第に「0.5」が「0.6」になり、そして「0.7」になっていきました。このようにじわじわ仕事が出来るようになっても、相変わらず私は16時間いますから結果的に「2」やるようになったんです。  
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MANAGER INTERVIEW VOL.149

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代表取締役 奥野 寛
株式会社コスモメンテナンス
先代であり私の父である現会長が勤めていた会社の防災部門が廃止されたことをキッカケに同僚2人と自宅で開業して、年商1億円ほどの事業を展開するも、従業員の一人が転職して、もう一人がなんと元居た会社が防災部門を再開するからということで引き抜きの出戻りに合って退職して、従業員がいなくなったところに満を持して93年に私が入社した。と、この辺りまでは、ホームページ内のブログで書いていましたよね。入社するまでの私はと言うと、学生時代は全然勉強をしてこなくて、京都市内の四年制大学を数校受験するも合格せず、「とりあえず短大に入って卒業のタイミングで四年制大学に編入したらいい!」という話を鵜呑みにして短大に行ったんです。しかし、編入試験には合格せず四年制大学へ編入できなかったんです。ですから、短大卒業後は何か志を持つ訳でもなく、大手ファストフードチェーンで何となくアルバイトをする日々を送っていました。そんな時に、父から「フラフラしてるんなら手伝え!」と言われて手伝いだしたんです。これが家の仕事に入ったキッカケです。